失われた5つのロシア建築の宝

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 長い歴史の中でロシアは何度か戦禍を経験し、外国の侵略で大火災に見舞われたこともあった。さらに、新政権が勝手に記念碑的な建物を壊して街並みを変えてしまうこともあった。

1. ストラスノイ修道院(モスクワ)

 1930年代、ヨシフ・スターリンはモスクワ総再開発計画に署名した。多くの街路が拡張・再建され、交通結節点が作られた。この際に数十の古い建物が消えた。反宗教政策と相俟って、古い寺院が次々に爆破されたのだ。1937年、ゴーリキー通り(現トヴェルスカヤ通り)の再建・拡張工事の一環で、歴史あるストラスノイ(受難)修道院が取り壊された。現在ここはプーシキン広場になっており、ミュージカル劇場と詩人アレクサンドル・プーシキンの銅像がある。

 1920年代のストラスノイ修道院とその手前の広場。広場の反対の端にあったプーシキン像は修道院の跡地に移された。

 修道院は17世紀、ロマノフ朝最初のツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチの治世に建てられた。修道院の本尊は生神女の受難のイコンで、人を治癒する力があったという。修道院は1812年のナポレオンのロシア戦役の際にフランス軍の略奪に遭ったが、敵軍が退却したことを街に知らせたのもこの修道院の鐘だった。

 1930年代、修道院の壁は扇動ポスターや広告を貼るのに使われていた。

*モスクワで失われてしまった他の建物についてはこちらからどうぞ

2. エリザベータ・ペトローヴナの夏宮殿(サンクトペテルブルク)

 この宮殿はピョートル1世の娘エリザベータ治世の18世紀ロシアのバロック建築の傑作だった。設計者は、ロシアに帰化し、冬宮殿やペテルゴフ宮殿などのサンクトペテルブルクの有名宮殿を手掛けたイタリア人、バルトロメオ・ラストレッリだ。

 現存するのは、「教会、広間、回廊を含め、160以上の部屋から成る。どこも鏡と豊富な彫刻で飾られていた」という説明書きのある版画のみだ。夏宮殿は、豪華な「夏の庭園」のプロジェクトを完成させるものだった。エリザベータ・ペトローヴナが崩御した後は、しばらくエカテリーナ2世もここで暮らした。彼女が後の皇帝パーヴェル1世を産んだのもこの宮殿だった。そしてこのパーヴェル1世こそが宮殿を取り壊してしまった。水を湛えた堀に囲われた自分の居城、ミハイロフスキー城を建てるためだ。運命の皮肉か、パーヴェル1世は謀反者らによってこのミハイロフスキー城で暗殺された。城は今も残っている。

3. チフヴィンスカヤ教会(イルクーツク)

 チフヴィンカの生神女のイコンを本尊とする石造寺院はイルクーツクの豪商イワン・ベチェヴィンの資金で1754年に建てられた。

 この教会はいわゆるシベリア・バロック建築の代表で、何段ものアーチと法輪など、ロシア風の装飾と東方の仏教由来の要素が奇妙に組み合わさっていた。ソビエト時代、寺院は閉鎖されて荒廃し、1932年には完全に取り壊された。

4. シューホフのロトンダ(ニジニー・ノヴゴロド)

 モスクワの有名なシューホフの塔の作者は、金属の構造物の改革者だった。1896年、彼は全ロシア工業・芸術展覧会のために直径68㍍の丸いパビリオンを建てた。

 ロトンダの屋根はユニークな網状の鋼鉄の膜で、中心部には世界で初めて凹んだ膜状の小屋組みが使われた。20世紀になると、このような構造は世界中で使われるようになった。展覧会の後、ロトンダはスタヴロポリ地方のリゾート都市、エセントゥキに移されたが、ソビエト時代に解体された。

5. ウスペンスカヤ教会(カレリア共和国コンドポガ)

 ロシア北部は木造建築の宝庫 だ。しかし、木造教会の大半は火事で焼けてしまった。現存するものはユネスコ世界遺産に登録され、修復を受けて大切に管理されている。それでも2018年夏、ロシア建築のファンに衝撃を与える悲劇が起こった。18世紀に建立されたユニークな教会、ウスペンスカヤ(生神女就寝)教会が焼けたのだ。3時間に及ぶ火災により、かつてロシア最高の木造建築(42㍍)だった建築の傑作はほぼ全焼した。

 5層のバロック様式のイコノスタシスと、ユニークな構成の天井画『聖体礼儀』も火事で失われた。

*なくならないうちに見ておくべき木造建築の傑作についてはこちらからどうぞ

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