古代ロシアに「ケルト十字」が現れたのはなぜか?

Legion Media; Sarang (CC BY-SA 3.0)
 古代ロシアの都市では、ケルト文化に伝統的な、十字と円環を組み合わせた十字架を見ることができる。このいわゆる「ケルト十字」がなぜロシアに現れたのか探ってみよう。

 ロシア最古の都市の一つであるヴェリーキー・ノヴゴロドには、この国で最古の石造りの教会が残っているが、そのいくつかには奇妙な特徴が一つある。十字と円環を組み合わせた十字架がファサードに刻まれていることだ。

 これは、ロシアには珍しい現象である。というのは、ロシア正教会のおなじみの十字架は4本の線で構成されているからだ――2本の垂直に交わる線(十字架そのもの)と、これに追加された2本の線だ。

 もう一つ面白いのは、「ケルト十字」が広まっているのは、まさにこの都市、ヴェリーキー・ノヴゴロドであり、あとは、近隣の地域でごくわずか見られるだけで、他地域にはないということだ。「ケルト十字」はなぜここにあるのだろうか?

ロシア正教の十字架

ノヴゴロドの十字架

 15世紀末にロシアが単一国家に統一されるまで、3世紀にわたりノヴゴロドは、選挙された政権を持つ独立した共和国だったが、ロシアの他地域のほとんどは、公たちの世襲だった。こうした事情により、14~15世紀にノヴゴロドは、独特の教会建築にくわえ、類例のない教会シンボルを生み出した。

 さらに、中央ロシアの多くの都市を壊滅させたタタール・モンゴル軍は、ノヴゴロドに達しなかった。そのため、こうしたシンボルを持つ極めて古い教会がノヴゴロドに残ることになった。

 十字と円環を組み合わせた十字架は、「ノヴゴロド十字」とも呼ばれる。この古都では、「礼拝のための」、円環を組み合わせた十字架もある。それらは、教会にではなく、別個に建立されており、路上に立つものもある。これらの十字架はしばしば、何らかの記念日や軍事的勝利にちなんでいる。また、十字架には『福音書』の場面が描かれることがあり、高さはほぼ2メートルだった。

14世紀の「アレクシーの十字架」。ノヴゴロドの「聖ソフィア大聖堂」(ノヴゴロド大主教区の主教座聖堂)に保存されている。

  また、教会のファサードの壁龕にも多くの十字架が刻まれている。それらは死者を記念してつくられた。

主の変容教会(14世紀建立、イリイナヤ通り)

 こうした「デザイン」は有名な「ケルト十字」に似ているように思われる。それは、中世初期に広まった、イギリスとフランスのケルト人のシンボルだ。円環は、異教の太陽の象徴であり、こうした継続性がキリスト教を受容したばかりのケルト人には重要だった。

ケルト十字(8世紀、スコットランドのアイラ島)

 ノヴゴロド周辺の十字架はケルト起源であるとの説を裏付けるかのように、さまざまな資料が信じがたいような伝説を示している。たとえば、そのうちの一つは、ロシア国家の「ケルト・ヴァリャーグ(ヴァイキング)」起源を示唆している。

  歴史家たちによって公式に認められた、この「ノルマン説」によると、ロシアの諸部族はヴァリャーグ、つまりヴァイキングに、自分たちを治めてほしいと頼んだ。そこでリューリクは、ノヴゴロドに、その二人の弟、シネウスとトルヴォルは、ベロゼルスクとイズボルスクにやって来た。こう年代記は伝えている。

 さらに、「ケルト・ヴァリャーグ」説によれば、これらのヴァイキングは、ケル​​ト人のルーツを持っていた…。その傍証は、イズボルスク(現在はプスコフ州に位置)に、円環を持つ十字架がいくつかあることだという。

 だが、北欧におけるケルト十字建立の伝統が8世紀末から知られているのに対し、ロシアの石造の「円環のなかの十字」がようやく14~15世紀に現れた理由は明らかでない。

 また、ノヴゴロドの十字架の形は「ケルト十字」のそれとは異なる。ノヴゴロドでは、十字架の四つの端は、斧の刃のような形で、そのため、円環からあまり突き出していない。 

 さらに、ノヴゴロドの十字架にはさまざまな種類があり、完全に円環の中に入っているものもあり、これはもうケルト十字には全然似ていない。

コジェヴニキの聖ペテロ・パウロ教会(15世紀初め)

 同様の十字架は、イズボルスク、プスコフ周辺、ラドガ湖畔、さらにはヨーロッパでも、リヴォニア騎士団の旧領で見つかっている。リヴォニア騎士団とドイツ騎士団は、ノヴゴロドを繰り返し攻撃した。そのため、ノヴゴロドの十字架は、ケルト文化ではなくゲルマン文化の影響だと推測する歴史家もいる。

 ゲルマン文化の影響については、次の事実も傍証になり得る。ノヴゴロドはヨーロッパと交易しており、ハンザ同盟の一員だったことだ(ハンザ同盟は、北西ヨーロッパの諸都市の大規模な政治的、経済的同盟であり、17世紀半ばまで存続した)。

「丸い十字架」を持つ、ヴィトクの聖ヨハネ教会(14世紀)

 それでも、ほとんどの研究者はこういう意見に傾いている。ケルト、イギリス、その他の西ヨーロッパの人々と、ノヴゴロドの十字架との間には何の関係もない、と。

 歴史家たちが初めてこのユニークなノヴゴロドの十字架を研究しようと試みたのは、19世紀末~20世紀初頭のことだ。そして彼らは、この十字架がビザンチン(東ローマ帝国)の伝統を彷彿させると考えた。正教は、ビザンチンからロシアに伝わっている。

 「(ノヴゴロドの)十字架の形は、ビザンチンによくある、円環の中の十字架に由来すると考えるべきだ。円環はおそらく、後光(光輪)または茨の冠を意味するだろう」。歴史家A・スピツィンは1903年に書いている。この説は、現代の地元の歴史家によっても支持されている。

 ちなみに、16世紀になると早くも、ノヴゴロドの円環を持つ十字架の「流行」は消えた。歴史家の考えでは、戦争と疫病のために職人がいなくなったためか、威勢を強めるモスクワ公国が、ノヴゴロドが独自の宗教的シンボルを用いるのを禁じたためだという。

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