革命以前のロシア・バレエ(写真特集)

RIA Novosti/Sputnik
 バレエは1917年のボリシェヴィキ革命の遥か以前から国民の財産となっていた。他の芸術には新体制のルールを押し付けた新政権も、バレエには手出しできなかった。

1. バレリーナ、マリア・プティパ(1880年代)

 バレエはロシア皇族を楽しませるために招聘された外国人によって18世紀末にロシアにもたらされた。だが、これがロシアの主要なダンスになったのは19世紀のことで、主導的な役割を果たしたのがマリウス・プティパだった。彼はペテルブルクの帝国劇場で40年以上バレエ団を指導し、100ほどのバレエ作品(およびバレエ王国)を生み出した。写真に写っているのはマリウスの娘でマリインスキー劇場のソリストだったマリア・プティパだ。バレエ『眠れる森の美女』でライラックの妖精の役を演じている。

2. バレエ『星』の一場面(1898年)

 ペテルブルクでは才能溢れる人気ダンサーらが活躍したが、モスクワではスターのリュボーフィ・ロスラヴレワが舞台を彩った。写真では中央にいる彼女がコール・ド・バレエを従えてビーナスを演じている。

3. マチルダ・クシェシンスカヤ(1900年代)

 最も有名なスターの一人だったのが、帝国劇場のバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤだ。彼女は32のフェッテをこなした最初のバレリーナだった。クシェシンスカヤは皇位継承者(後の皇帝ニコライ2世)とのロマンスでスキャンダルを起こしたことでも有名だった(最近これを題材に映画『マチルダ 禁断の恋』が制作された)。彼女は結局皇族の一人、大公アンドレイ・ウラジーミロヴィチと結婚し、革命後はロシアを亡命せざるを得なかった。写真は、ペテルブルクの豪勢な自宅の客間にいるマチルダ。

4. バレリーナ、アンナ・パヴロワ(1907年) 

 アンナ・パヴロワは、クシェシンスカヤ同様、ロシア・バレエ界の真のスターだった。彼らの地位と豪勢な生活は現代の最も裕福なポップスターに例えることができるだろう。マチルダには大邸宅があったが、パヴロワには自分のスタジオがあった。写真はまさにそのスタジオで撮影されたもので、彼女が教師とリハーサルを行っている。振付師のミハイル・フォーキンはわざわざ彼女だけのために有名な演目『瀕死の白鳥』を振り付けた。

5. バレエ『ファラオの娘』(1905年-1906年)

 ヴェーラ・カラーリ、ソフィア・フョードロワ、アレクセイ・コズローフがペテルブルク大劇場(現サンクトペテルブルク音楽院)で上演されたチェーザレ・プーニのバレエ『ファラオの娘』の衣装をまとっている。評論家らは、エジプトの浅浮彫りにインスピレーションを得た画家のコンスタンチン・コローヴィンが手掛けた舞台装飾と衣装を絶賛した。

6. バレエ『レ・シルフィード』(『ショピニアーナ』)(1909年) 

 ミハイル・フォーキンが振り付けたバレエ『レ・シルフィード』はペテルブルクのマリインスキー劇場で1907年に初演された。この演目は作曲家フレデリック・ショパンを記念して作られたものだ。バレエの花形はアンナ・パヴロワ、タマーラ・カルサヴィナ、ブロニスラヴァ・ニジンスカヤ、ヴェーラ・フォーキナだった。1909年、バレエはパリで上演され、伝説のセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの珠玉の演目の一つとなる。 

7. ヴァーツラフ・ニジンスキー(1910年)

 ポーランド人ダンサーの息子ヴァーツラフ・ニジンスキーは、非常に才能に溢れ(5歳にしてオデッサ・オペラの舞台でデビューを果たした)、軽々とペテルブルク・バレエ学校に進学し15歳でマリインスキー劇場でのデビューを果たし、批評家から絶賛された。彼は最高のバレリーナらとペアで踊り、非常に高く跳んで長く宙に留まることができた(この舞うような跳躍はエレベーションと呼ばれる)。写真には、マリウス・プティパが振り付けたバレエ『タリスマン』で風神ヴァイユの衣装を着たニジンスキーが写っている。

8. タマーラ・カルサヴィナの肖像(1910年代) 

 カルサヴィナもまたマリインスキー劇場とディアギレフの「ロシアの季節」の花形ソリストだった。写真では、彼女はバレエ『火の鳥』の火の鳥の衣装をまとっている。彼女は長年ヴァーツラフ・ニジンスキーとペアで踊り、革命後はロシアを去った。 

9. セルゲイ・ディアギレフの「ロシアの季節」の団員ら(1909年-1910年)

 セルゲイ・ディアギレフのおかげでロシア・バレエ真のブランドとなり、上質の輸出品となった。劇団のバレエは最高のダンサーとバレエ・マスターによって準備され、衣装は最も才能のある芸術家らが手掛けた。写真はバレエ団のリハーサルの様子。ピアノの右側には作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーが腰掛け、ミハイル・フォーキンが立っている。中央はバレリーナのタマーラ・カルサヴィナだ。

10. セルゲイ・ディアギレフと友人ら。ニースにて(1911年)

 ディアギレフは「ロシアの季節」の団員や演出家らと世界を巡った。1908年から1914年まで、彼らはヨーロッパ中の舞台に上がった。フランスが特に多かったが、南米や米国も訪れた。写真は右から順にアレクサンドラ・ホフロワ、セルゲイ・ディアギレフ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナら。 

11. ヴァーツラフ・ニジンスキーとセルゲイ・ディアギレフ(1911年) 

 ディアギレフはロシアで最初に同性愛を公言した人物の一人だった。彼のバレエの花形ダンサーだったニジンスキーは彼の長年のパートナーだった。しかしヴァーツラフは後に突然結婚した。怒ったディアギレフは彼をバレエ団から追放し、才能溢れるダンサーのキャリアを事実上終わらせた。

12. バレリーナに囲まれるアンナ・パヴロワ(1907年) 

 19世紀末から20世紀初めのバレリーナの外見と衣装は現代のものとは驚くほど異なる。当時の写真には、重さを感じさせないほど痩せたダンサーはいない。ロシアのバレリーナがポワントを履いて踊るようになったのは19世紀半ばからだ(ただし当時は今日バレエで見ることのないヒール付きの靴を履く役柄もあった)。写真はアンナ・パヴロワ(中央)とその他のバレリーナたち。

13. 『白鳥の湖』(1895年) 

 マリウス・プティパが振り付けた『白鳥の湖』がマリインスキー劇場で初めて上演された頃のダンサーらはこんな様子だった。有名な小さな白鳥たちの踊りは、もちろん私たちが想像するものと全く違う。ところで、この垂れ下がったチュチュは「ショペンカ」と呼ばれ、古いロマンティック・バレエに特徴的だったが、後にフォーキンの『ショピニアーナ』で復活した。脚を完全に晒し出す水平なチュチュが登場したのは第二次世界大戦後のことだ。

14. エカテリーナ・ゲリツェル(1914年)

 ゲリツェルもまたセルゲイ・ディアギレフのバレエ団の一員として世界を回ったが、まだトップスターではなかった。革命後多くのバレリーナが亡命する中、ゲリツェルはソ連演劇界の真の旗手となり、1935年までボリショイ劇場で活躍した。写真はバレエ『せむしの仔馬』で姫の衣装を着たゲリツェル。

15. ロンドン公演(1911年)

 バレエ・マスターのアレクサンドル・ゴルスキーはペテルブルクの帝国劇場で長く活躍し、後にモスクワのボリショイ劇場に出張した。そこで彼は一連の改革を行い、新しいバレエ演目を加え、劇場内の出来事をすべて写真に収めることを主導した。彼のおかげで、巡業中のものを含め、ボリショイ劇場の多くの写真資料が現存している。写真はアルハンブラ劇場でのバレエ『舞踏の夢』のリハーサルの様子で、アレクサンドル・ゴルスキーとバレエ団の役者ら(エカテリーナ・ゲリツェルを含む)が写っている。

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