なぜ文豪レフ・トルストイはセックスを憎んだか

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 一方では、極度に潔癖な道徳の説教者、他方では非常な女好き…。最も多作で多彩な顔をもつこのロシアの怪物的作家は、実際のところどんな人物だったか?

 19世紀ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828~1910年)は、実にユニークで矛盾に富んだキャラクターだ。彼の生涯においては、多数の女性との関係(そのほとんどが娼婦とのそれ)が、道徳、純潔、家庭生活に関する説教と隣り合っている。彼は、自分の罪悪を償うために、自分の作品の中で説教を繰り返したのだろうか?

恥辱と淫蕩 

「兄たちが初めて私を娼家に連れて行き、私がその行為をやったとき、私は事が終わった後で、その女性のベッドの脇に立って泣いた」。トルストイは後に自分の童貞喪失をこのように回想している。彼は16歳だった。

 トルストイが女性に対して初めてロマンティックな性愛の感情を抱いたのは13歳頃で、これについては日記にこう書いている。

「愛に似た強い感情を経験したのは、13歳か14歳になってからだ。しかし、私はそれが愛だったとは信じたくない。その対象は太った小間使いだった(もっとも、顔立ちはとてもきれいだったが)。しかも、13~15歳というのは、少年時代の最も無軌道な時期だから。どこに向かって突き進むべきか分からず、おまけにこの時期の肉欲は途方もない力で駆り立てるのだ」

 18歳で、将来の作家は日記をつけ始めた。それは、性病で入院した病院でのことだった。これは若きトルストイにとっては本当にショックで、彼は自分の気持ちを整理する必要があった。しかしこの病気さえも、若者の「遊び」探しを止めることはできなかった。彼はしばしば性欲について記し、自分の肉欲を省みている。

 1854年、26歳のトルストイが軍人としてクリミア戦争に参加していたとき、彼の所属した軍団は一時ブカレストにあった。彼は、自分がいかに「ダメになったか」を苛立ちを露わにしつつ記している。 

「私は何度か女と関係し、嘘をつき、見栄を張り、そしてこれがいちばん恐ろしいことだが、戦火のもとで、自分で期待していたような行動をとれなかった」

 数年後、自分の領地のヤースナヤ・ポリャーナに帰還していたトルストイは、無為に苦しみ、日々性欲が嵩じてどうにもならず、そのために自己嫌悪にかられると書いている。

「私はこの2か月間、どこかで何らかの方法で愛人をこしらえることにした」

「欲望は凄まじく、ほとんど肉体的な病気の域だ」

「私は庭園をさ迷い歩いた。すごくきれいな農民の女がいた。とても感じのいい美貌だ。私は、無力にも悪徳へ滑り落ちていく。自分でも耐え難いほど下劣だ。まだしもあっさり悪徳をなすほうがましだろう」

 こうしたトルストイの日記を見ると、彼はとんでもない女たらしに思えるかもしれない。そして、多くの研究者がそういう結論を出し、トルストイが農婦たちに膨大な数の子供を生ませたというウワサを広めている(実際には、農婦との私生児は一人が知られるのみだが)。

 実は、こうした淫行と娼婦買いは、当時の若い貴族にとってはありふれたことだった。だが、彼がこれについていかに激しく自分を責め、自分を見つめ、苦しんだか…。これはまったく尋常ならざる、彼の一側面だった。

肉欲との戦い

 作家は常に、自分の性愛観を再考し、人間はかくあるべしという方針を定め、自分に課す。1855年に彼はこう書いている。

「人は全体として、精神的な生活を目指すべきであり、その精神的な目標を達するためには、肉欲の充足がそれと矛盾しない、または精神的な志向と一致するような立場が必要だ…。かくして、これが私の新しい原則となる(これを、私が久しく自分に課していたものに新たに加える)。それはすなわち、活動的で、合理的で、謙抑であるべし、というものだ」。

 肉欲を鎮めるためにトルストイは、常に何かに従事することにした。1856年から彼は、熱心に結婚相手を探し始め、淫蕩な生活に終止符を打とうとする。しかし、未来の妻に擬した貴族令嬢たちとは、誰一人うまくいかない。ようやく6年後、トルストイが34歳になったとき、宮廷医の令嬢で18歳のソフィア・ベルスに出会う。彼女は自分に「合うように」思われた。

 結婚する前にトルストイは、「良心を清めよう」として、うら若い花嫁に自分の日記を見せる。彼としては、二人の間に秘密を持ちたくなかったのである…。そして、決して裏切らないと彼女に誓う。

 日記に記されている「遍歴」は、ソフィアに衝撃を与え、大泣きさせたが、それでも彼女は結婚に同意する。そして結婚式を挙げるとすぐにトルストイは、新妻をヤースナヤ・ポリャーナに連れて行った。

結婚は幸福だったか? 

 トルストイは倫理的であるだけでなく、敬神の念が強かった。彼は家庭にあっては本物の「専制君主」だったと考えられており、妻に次々に13人もの子供を産ませた。理由は簡単だ。トルストイは避妊は罪悪だと考えていたので、「神に怒りに触れるのを恐れていた」。

 また、こんなケースも知られている。ソフィア夫人に化膿性腫瘍ができて、医者が呼ばれ、彼は夫に手術の許可を求めた。ところがトルストイは、「神の意志に逆らうことはできない」と考え、長い間決断できなかった――たとえ妻が死にかねないとしても。

 にもかかわらず、ソフィアは夫を愛しており、まったく献身的で、彼の仕事(および、農業経営をはじめとするヤースナヤ・ポリャーナ全体の仕事)を行い、子供たちを育て、家事全般をこなし、何度も手書きで超大作『戦争と平和』を清書した。 

 トルストイの考えでは、女性の領分は家庭にあった。それを具体的に示すのが、『戦争と平和』のヒロイン、ナターシャ・ロストワの運命で、彼女は育児に幸福を見出す。『アンナ・カレーニナ』のもう一人のヒロイン、キティー・シチェルバツカヤもそうで、彼女も母性に目覚め、変貌していく。

 その一方で、ヒロインのアンナに対してトルストイがやったことは、誰もが覚えているだろう。アンナは、不倫の恋に陥り、家庭と息子を捨て、情欲の淵に沈む…。

性愛の否定 

 1880年代、トルストイに精神上の転回が起きて、彼の世界観は根本的に変わった。例えば、彼は、私有財産と自著の著作権を完全に放棄しようとした。また結婚観も見直した。以前は、彼の創作においては家庭こそが主たる価値となっていたが、今や結婚に完全に幻滅する。そうした考えを彼は、中編『クロイツェル・ソナタ』に表している。

 この小説でトルストイが語るのは、欲情というものの下劣な性質であり、人間が淫欲を抑制できないことであり、そして嫉妬がまさに破壊的な力をもっていることだった。

 この作品の主人公は、かつての作者のような好色漢であり、およそ女性は、もっぱら男の淫欲を掻き立てるために創造されたのだと彼は言う。彼は妄想的な嫉妬に狂い、無実の妻を殺害する。

 この時期のトルストイは、もはや単なる有名作家ではなく、真の精神的指導者となっていた。人々は彼のすべての新作をむさぼり読んでおり、大きな影響を与えられていた。そのため、『クロイツェル・ソナタ』は、刊行後にロシア帝国の検閲により発禁となった。トルストイの評伝を書いたパーヴェル・バシンスキーはこう書いている。「『クロイツェル・ソナタ』を読んだ若者は、家族が汚れた性欲に基づいていることから、結婚と出産を拒否した」。

 作家は今や、性的遍歴を若気の至りなどではなく、深刻な「依存症」として認識していた。

「放蕩者というのは単なる悪口ではない。それは一つの状態なのだ(淫女も同じだと思う)。それは、不安と好奇の状態であり、絶えず「新味」を必要とする状態である。こうした状態は、快楽のために一人ではなく多数の女(男)と接することで生じる。酔漢がそうであるように、自制することはできなくはないが、酔漢も放蕩者も、ほんのちょっと油断をするだけで転落するのだ」。トルストイは日記に書いている。そして、「私は放蕩者だ」と彼は自認する。

『クロイツェル・ソナタ』に取り組んでいるときにトルストイは、禁欲を説くアメリカの宗教団体「シェーカー教徒」からパンフレットを受け取る。彼は、弟子で友人のウラジーミル・チェルトコフに、そのパンフレットは自分の結婚観を強めただけだと書いている。今やトルストイは、道徳と淫行との戦いのみならず、完全な「不犯」、純潔を説く。

 トルストイは最晩年に、結婚生活と家庭からの完全な解放を決意し、82歳の高齢で妻を置いて家出する。その10日後に彼は、隣の郡の鉄道駅で肺炎で死んだ。

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