「私はロシアの愛国主義者だが、頭はドイツ人だ」と女帝エカテリーナ役のヘレン・ミレンは第3話で言う。この言葉がエカテリーナ・アレクセエヴナ、つまりゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ・フォン・アンハルト=ツェルプスト自身の口から実際に発せられた可能性は十分にある。
ロシア史を題材とし2019年に放送されたネットフリックスのドラマ『ラスト・ツァーリ』のまがい物の登場人物とは異なり、『エカテリーナ大帝』の登場人物にはしっかり感情移入できる。ドラマの3人の主要な人物、エカテリーナ、グリゴリー・ポチョムキン、皇太子パーヴェル・ペトローヴィチの役については、シナリオも演技も努力と心が込められている。俳優も脚本家もよくやった。
女帝と「半皇帝」
ヘレン・ミレンは紹介するまでもない。エカテリーナと外見があまり似ているとは言えないが、このことは彼女が女帝を演じる上で妨げとはなっていない。もちろん、74歳の女優を40歳に見せるには、特殊メイク係や衣装係、照明係の努力が求められただろう。だが、これほどの権勢と権力とを持った女性を演じることができるのは、ミレン級の女優だけだ。彼女が「私は絶対的な権力を手にしている」と言う時、彼女を信じないわけにはいかない。もちろん、多くのエピソードで、恐ろしく容赦ない女帝があのような感傷的なふるまいをするはずがないと思えるシーンはある。だが、毒があって時に乱暴でさえある冗談、情熱や衝動、権力と勝利に対するエカテリーナの抑えられない願望は、ミレンによって見事に表現されている。
加えて、ドラマを見ればロシア皇帝であることが愉快な責務ではないことが分かる。各話でエカテリーナは執務机に向かって時には夜間に仕事をしたり、宮廷評議会で議長を務めたり、宮殿内での陰謀で決定的な発言をしたり、息子の縁談をまとめるたりしている。もちろん、一つのドラマの枠組みでは女帝の多様な仕事や課題をすべて見せることは難しい。だが、これは少なくとも意味のあることだ。これらのシーンのおかげで、女帝は、例えば『ラスト・ツァーリ』におけるニコライ2世のような、玉座に掛けたまがい物には見えない。作中に溢れている彼女の多数の寵臣らとの関係は創作に思えるかもしれないが、全くそうではない。エカテリーナは実際に、政治生活と密接に絡み合った波乱万丈の私生活を送っていた。その中でも特に重要な役割を果たしたのが、タヴリチェスキー公爵グリゴリー・ポチョムキンだ。
グリゴリー・ポチョムキンを演じる50歳のジェイソン・クラークは、20年以上のドラマ・テレビ映画の撮影経験を持つ俳優だ。ポチョムキンがまだ若く血気盛んな頃のエピソードでも、暗黙の共同統治者・軍最高司令官としてクリミアを征服するエピソードでも、公爵としての彼の演技は真に迫っている。
グリゴリー・ポチョムキンは、高貴で勇敢な人物だった。ただし、宮廷生活では堕落していた。ポチョムキンは実際に女帝の寵臣を「選び」、管理していた。例えば、あのアレクサンドル・ドミトリエフ=マモノフだ。ポチョムキンによるクリミアの無血併合は、高い信憑性を以て描かれている。露土戦争のエピソードでは、血生臭い終戦に注意が向けられていないにせよ、脚本家らは幸いにも実在しない「ポチョムキン村」の神話を映像化することはなかった。そしてエカテリーナの場合と同じく、本作のポチョムキンもまた、視聴者に興味と共感を呼び起こし、もっと知りたくなるような人物として描き出されている。
十分に真実
ドラマでも、またおそらく当時においても、最も論争を呼ぶ人物だったのが、皇太子パーヴェル・ペトローヴィチだ。この役を演じたジョゼフ・クインは、年長の俳優らほどの経験はないが、それでも将来の皇帝の矛盾や衝動に満ちた性格、彼の私生活の悲劇、母への依存を上手く表現している。
だがパーヴェルはおそらく、実際よりも印象の薄い人物として描かれている。彼の輝かしい教養や疑いのない国家統治の才が示されていない。ドラマの最後で彼の治世が「不成功」と表現されていたのは悲しい。だが結局のところ、本作の主役はエカテリーナであってパーヴェルではない。この意味で、物語の終盤、パーヴェル・ペトローヴィチの指示で彼の亡父に相応の敬意が払われるシーンは非常に価値がある。
セットの装飾もとても重要だ。100パーセント時代考証ができているわけではないが、宮殿は時代と様式に合致している。いくつかの場面は、実際にガッチナ宮殿、ペテルゴフやツァールスコエ・セローの並木道で撮影されている。冬宮(現エルミタージュ美術館)やペテルゴフ宮殿の内部で撮影ができなかったのは残念だが、セットもなかなかの出来で、しばしば当時の宮廷のしきたりが簡略化されてはいるが、18世紀後半のロシアの宮廷生活の雰囲気を十分にイメージできる。
あと『エカテリーナ大帝』に足りていないものは何だろうか。おそらくはスケール、あるいは少なくともその仄めかしだ。エメリヤ・プガチョフが女帝と側近にいかほどの恐怖を与えたか、視聴者には分からない。プガチョフとその軍との戦いは、実際には作中よりも長期間続き、流れた血の量も多かった。
エカテリーナの立法活動や改革活動については何も語られていない。女帝の芸術への没頭や科学への愛の描写が彼女のイメージをより良くできただろうと思うと残念だ。1768年から1774年までの遠征が終わった際や、オチャコフを獲得した際の宮廷の祝賀行事もかなり控えめに見せられている。だがこれはむしろ撮影予算の問題だろう。
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大衆向けの映画制作の課題は、史実の歪曲や再話ではなく、時代の姿やその印象を視聴者に伝えることだ。この点で『エカテリーナ大帝』は成功している。俳優の力強い演技や史跡での撮影、こうしたことすべてが、このドラマの長所と言えるだろう。ドラマのおかげでこの傑出した女性の治世についてもっと知りたいと思ったのなら、美的満足に加えて、本作から収穫があったというものだ。