ピョートル・チャイコフスキー:僻地で生まれ育った少年がロシアを代表する作曲家に

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 世界で最も有名なバレエ、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』を作曲したのはこの人だ。

 10のオペラ、3つのバレエ曲、7つの交響曲、そして多数のロマンス、協奏曲、カンタータ、ピアノのための小品、その他、管弦楽および特定の楽器のための多種多様な作品…。ピョートル・チャイコフスキーはこうした膨大な遺産を世界のクラシック音楽に残した。この偉大な作曲家が活動したのは19世紀後半で、これは「ロシア音楽の黄金時代」と呼ばれていた。

モーツァルトと農奴の女性教師

 チャイコフスキーは1840年、ウラル地方のヴォトキンスク市で生まれた。当地に彼の父は、製鋼所運営のために派遣されていた。なお、この工場は今も現存する。

 音楽はちょっとした詩作とともに、幼いチャイコフスキーに対する家庭教育の一部だった。彼の両親は音楽を心から愛していたから、子供たちを音楽に親しませた。

 家には面白い楽器「オーケストリオン」があった。これは小型の自動式オルガンだが、空気圧で様々な楽器に似た音を出せる。チャイコフスキーは幼い頃、これに耳を傾けるのが好きだった。少年にとくに印象を与えたのはモーツァルトの作品だ。

「モーツァルトのおかげで私は音楽とは何かを知った」。後にチャイコフスキーは日記に記している。

 少年にピアノを教えたのは、農奴の女性、マリア・パリチコワだ。彼女がいつどこで読譜と記譜を身につけたかについては、チャイコフスキーの伝記作者たちの意見は分かれている。独学だろうと言う者もあれば、彼女の主人が才能を見抜いてお金を払って教師につけたのだろうと言う者もいる。

法律を学ぶ傍ら劇場に夢中に

 10歳の時、チャイコフスキーは母とともに首都ペテルブルクに移った。間もなく彼は、法律学校に入学させられた。

 サンクトペテルブルクでの生活は、地方のそれとは似ても似つかなかった。幼いチャイコフスキーは劇場に連れて行かれ、有頂天になった。そこで彼は初めて大オーケストラの響きを聞いた。父は少年のためにピアノの個人教師を雇った。そのドイツ人、ルドルフ・キュンディンゲルが、少年をコンサートに伴うようになった。面白いことに、キュンディンゲルは、チャイコフスキーの父に、少年にはとりたてて才能がないと言ったのである。

 にもかかわらず、チャイコフスキーの音楽への熱中は続いた。法律学校を卒業すると彼は、法務省に勤めたが、彼の関心はすべて劇場に向いていた。彼は、ロシアの劇場で歌っていたイタリア人歌手と親友になり、イタリア・オペラに惚れ込んだ。

 キュンディンゲルの「判決」にもかかわらず、チャイコフスキーの父は息子に音楽教育を受けるようすすめた。こうして21歳のときにチャイコフスキーは、サンクトペテルブルク音楽院の作曲科に入った。

初期の作品と貧困生活

 1865年、チャイコフスキーの作品が初めて公衆の前で演奏された。その作品は、「管弦楽のための性格的踊り」(オペラ『地方長官』に含まれている)で、あの「ワルツ王」、ヨハン・シュトラウス2世が指揮し(!)、聴衆にも好評だった。その後、音楽院の管弦楽団が皇室のミハイロフスキー宮殿で、彼の序曲を演奏した。このときは、チャイコフスキー自身が指揮した。

 それでも、本物の成功はまだ得られなかった。音楽に打ち込むために、チャイコフスキーは勤めを辞めた。つまり、安定した収入を失った。彼の伝記作者、ニーナ・ベルベロワは、この時期をこんな風に描いている。

「お金はなかった。あったのは借金だけ…。作曲は遅々として進まず、時に救いは法務省しかないように思われた。復職すべきではないか?..」

 ペテルブルクで彼は一人ぼっちだった。家族は皆、ウラルに引き揚げていた。ベルベロワによると、チャイコフスキーは自殺さえ考えたという。

ヨーロッパ旅行とトルストイの涙

 1年後、ペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは、モスクワの「帝室ロシア音楽協会モスクワ支部」(モスクワ音楽院の前身)に、教師として招かれる。以後のモスクワ時代はついに彼に成功をもたらす――もっとも最初は、音楽批評家としてだったが。

 チャイコフスキーは、ロシア民族楽派の作曲家たち「ロシア5人組」(ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフ)と、親交を結ぶ。

 また、欧州を旅し、もちろん、劇場に入り浸った。ビゼーの『カルメン』に歓喜し、ワーグナーの複雑な大作に圧倒された。

 チャイコフスキーの作品の演奏をめぐる、こんな愉快なエピソードがある。あるとき、文豪レフ・トルストイのために特別に、音楽院でチャイコフスキーの曲による小コンサートが催された。ところが、トルストイがフェルト製の長靴を履いていたため、門番はそれが偉大な作家であると分からず中に通さなかった。誰かがその勘違いに気がつき、一件落着。ホールの第一列に座らされたトルストイは、この駆け出しの作曲家の音楽にすっかり感動し、泣いてしまった。

栄光と新しい生活

 1870年代、民謡に熱中したチャイコフスキーは、劇作家オストロフスキーの戯曲『雪娘(スネグーロチカ)』のための音楽、イワン雷帝の時代を描いたオペラ『オプリーチニク』、ニコライ・ゴーゴリの小説『降誕祭前夜』に基づくオペラ『チェレヴィチキ』、また、彼の最も有名な曲の一つ、バレエ曲『白鳥の湖』を書いている。

 チャイコフスキーはさらに、ヨーロッパのオペラの台本や、西欧の音楽学者の著作の翻訳も手がけた。

 彼に真の成功をもたらしたのは、オペラ『エフゲニー・オネーギン』だ。その初演は、サンクトペテルブルクのオペラ・バレエの殿堂、「マリインスキー劇場」で行われた。

 チャイコフスキーは、作曲には職人的な態度をとるべきだと主張した――それは何よりもお金をもたらさねばならないから、というのが彼の言い分だ。

「モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンらは、その不滅の作品を、靴職人が靴を縫うように書いた。つまり、日々倦まず弛まず、多くの場合、注文で作曲したのである」。チャイコフスキーはこう書いている。

 作曲家は、上流風の生活を送り始め、皇室の人々と時を過ごし、劇場ではしばしば皇帝専用桟敷に座った。そこで皇帝アレクサンドル3世に紹介されたこともあった(皇帝は後に、チャイコフスキーの葬儀の費用を全額支払った)。

 チャイコフスキーは時々海外旅行もした。そのなかには、自身の曲の初演も含まれる。彼はアメリカに行き、ニューヨークのカーネギー・ホール(1891年創設)のこけら落としでスピーチしたこともある。

 だがこの間も、チャイコフスキーには自分の家というものがなかった。親類や友人のところに住んだり、ホテルに泊まったりという暮らしだ。

 永遠の旅人の生活に倦んだ彼は、生涯最後の2年間は、モスクワ近郊の閑静な街、クリンに家を借りていた。現在そこには、作曲家の博物館がある。

 チャイコフスキーの死は突然だった。ペテルブルクに到着するや、コレラに感染してしまった。ちなみに、この病は、彼の家族全員に運命的につきまとった。母はそのために死んだし、父も危うく死ぬところだった。 

結婚と同性愛

 チャイコフスキーの個人生活はついにうまくいかなかった。1877年に、モスクワ音楽院学生のアントニナ・ミリュコワと結婚したが、わずか数週間で破局する。

 フランスのオペラ歌手、デジレ・アルトーともロマンスがあったが、結婚には至らなかった。富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックとは長年文通し、彼女から金銭援助を含む庇護を受けたが、晩年に絶縁を通告されている。

 ところで、チャイコフスキーの死後、彼は自殺したとの噂が流れた。同性愛のスキャンダルを告発されるのを恐れたからだという。しかし今日では、伝記作者たちは、自殺説を否定している。

 もっとも、チャイコフスキーが、彼の弟(兄の死後、兄の財産を管理した)と同じく、同性愛者であることは公然の秘密だった。それを初めて体験したのは、青年時代のことで、外部から閉ざされた法律学校においてだったと考えられている。後年、彼はいくつかのスキャンダルに巻き込まれている。彼が青年たちと「付き合っている」のを見た者もいた。

 ソ連時代には、このテーマは研究者にとってもタブーだった。国を代表する作曲家が犯罪者であるわけにはいかなかった(ソ連の刑法には、同性愛を罰する条項があった)。チャイコフスキーの生活におけるこのプライベートな側面について語るようになったのは比較的最近で、彼の伝記が映画化されて以来だ。