ロシア作家のお気に入りのリゾートはどこ?

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 ロシアの作家たちは、自然の中で過ごすことを好んだ――例えば、郊外の別荘で。しかしもっと遠く、ロシア南部や外国に出かける者も多かった。

クリミア

 クリミアのカラッとした気候、針葉樹の豊富さ、そして海の空気は、多くの人の健康増進に役立った。ソ連政権がクリミアをソ連全体の保養地に変える以前から、多くの作家がここへやって来て休暇を過ごし、健康増進に励んだ。したがって、クリミアのあちこちに、彼らの足跡がしるされている。

 例えば、詩人アレクサンドル・プーシキンは、かつてクリミア・ハン国の首都であったバフチサライを詩で讃えているが、ロシア南部に流刑になった際に、クリミアに旅し、ここで保養している。

 結核を病んでいた作家アントン・チェーホフは、晩年をヤルタの「白い別荘」で過ごしている。モスクワの気候は彼にはどうにも合わなかった。

 作家レフ・トルストイも、クリミアは大のお気に入りだった。彼が初めてここへ足を踏み入れたのは、クリミア戦争に参加したときだ(このときに有名な『セヴァストーポリ物語』を書いている)。その後、再びこの地を訪れ、19011902年には、大病したこともあり、家族とともに計9カ月を過ごしている。ちなみにここでチェーホフやゴーリキーと会っている。

 コクテベリには、ロシアの有名な詩人、マクシミリアン・ヴォローシンの邸宅があり、「銀の時代」の多くの詩人が訪れている。オシップ・マンデリシュターム、ニコライ・グミリョフ、マリーナ・ツヴェターエワなどの面々だ。

 作家ミハイル・ブルガーコフも、スケッチ『クリミアの旅』で当地の印象を語っているが、実は、彼はヤルタが気に入らなかった。あまりに観光都市化していて、必ず値段交渉をしなければならないから、というのであった。

カフカス

 もう一つ、多くの作家、詩人を引きつけた場所がある。カフカスの山々の鉱泉だ。

 詩人レールモントフは、ピャチゴルスクの鉱泉で保養している。ここで休暇を過ごしていた貴族たちの生活は、彼の長編『現代の英雄』に反映されている。

 だが、カフカスは、この詩人にとって宿命の地となった。ここで決闘して死んだのである…。

 プーシキンは、クリミア行きの前に2か月間、カフカスで保養している。キスロヴォツクとエッセントゥキで熱い硫黄温泉に入り、その後で、長編詩『カフカスの虜』を書いた。さらに、グルジアとアルメニアを旅し、『アルズルム(エルズルム)への旅』をものしている。

 『カフカスの虜』と言えば、レフ・トルストイも、同名の小説を書いている。彼は、若い頃カフカスの戦闘に参加していた。

 カフカスの山々とそこに生きる人々のテーマは、その後もトルストイの関心を引き続ける。グルジアのチフリス(現在のトビリシ)を訪れたときは、ちょうど敵将ハジ・ムラートが投降する事件が起きており、トルストイは最晩年にこれを題材とした傑作『ハジ・ムラート』を書いている

 詩人セルゲイ・エセーニンも、グルジアとアゼルバイジャンを旅しており、東方とペルシャのイメージは彼の詩に現れている。

 詩人ウラジーミル・マヤコフスキーは、グルジアを「天国」と呼び、チフリスが好きだった。これは詩人ボリス・パステルナークも同じで、彼はグルジアの詩人たちと親交があり、彼らの詩を多く翻訳している。

イタリア

 逆説的だが、ロシア作家がロシア人とロシアについて最良の作品を書くのは、外国に滞在しているときだ――。こんな傾向があるが、これはゴーゴリに始まる。

 ゴーゴリは単に旅に出て、仕事と文筆業から一休みしたいと思ったのだが、結果的に、その代表作『死せる魂』を書いてしまった。彼はローマが好きになり、第二の故郷とみなしていた。

 作家フョードル・ドストエフスキーは、二度目の結婚の後でヨーロッパに出かけた(もっとも、これは新婚旅行ではなく、借金取りから逃れるためだったのだが)。彼はスイスに滞在したのち、イタリアに移った。まさにここで彼は、長編『白痴』の大部分を書いている。

 「美は世界を救う」という名高いアフォリズムのもととなったセリフを書いたのも、フィレンツェであったと考えられている。

(『白痴』の第35章に「本当ですか、公爵、あなたがある時に『世界を救うのは美だ』とおっしゃったとかいうのは?」というセリフがある)。

 作家マクシム・ゴーリキーがイタリアへ去ったのは結核治療のためだったが、結局、ここに途中の中断を挟んで15年間も腰を落ち着けることになった。カプリ島のヴィラが長い間彼の住まいとなり、ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンを含む、多くの有名なロシア人が訪れた。

 その後作家は、いったんロシアに戻るが、再び出国し、ソレントのヴィラとサナトリウムで長く過ごしている。

 詩人ヨシフ・ブロツキーは、ヴェネツィアが好きだった。ここへやって来たのは、アメリカに亡命した後のことだが、毎年冬をここで過ごした。ちょうどこういう天候と霧、湿っぽさが、彼に故郷のサンクトペテルブルクを思い出させたらしい。

 ブロツキーは、運河の「お水」がお気に入りで、観光客の群がいないときに一人で街を散策するのが好きだった。ヴェネツィアについて彼は、有名なエッセイ『癒されぬ人々の岸辺』を書いている。

ドイツ

 ドストエフスキーは、シベリア流刑からサンクトペテルブルクに帰還した後、健康を回復すべくドイツの保養地に出かけているが、ここでルーレットと賭博に取り憑かれてしまった。バーデンバーデン、ヴィスバーデン、バート・ホムブルクで彼はしこたま散財し、後にこの体験を小説『賭博者』に書いている。

 バーデンバーデンは概してかなり「ロシア的な」保養地だった。作家イワン・トゥルゲーネフもここが好きで、当地でいくつかの大部の作品を書いている。短編小説集『猟人日記』の大部分、『アーシャ』、『煙』、『処女地』などの小説だ。

 あの偉大な道徳家レフ・トルストイでさえ、若い頃はここでルーレットに夢中になった。もっとも後に彼は、そのことで自分を厳しく責めてはいるが。

アメリカ

 これは休息とは呼びにくいが、とにかく20世紀になるとロシア作家たちはアメリカ旅行を始める。

 例えば、詩人エセーニンは、舞踏家の妻、イサドラ・ダンカンの公演にくっついていくが、退屈し切り、彼女の成功に嫉妬する。米国では彼はまったく無名だったから。

 詩人マヤコフスキーはいくつかの州で公演し、米国人女性エリー・ジョーンズと熱烈な恋に落ちる。彼女は詩人の娘を産んでいる。

 ゴーリキーは、地元の社会主義者の招きで訪米したのだが、ここで大いに気まずい思いをする羽目となる。作家がこのとき同伴していた女性マリア・アンドレーエワは妻ではなかった。それを知ったピューリタン的米国人たちは、二人をホテルから恥をかかせて追い出した。そして、他のどのホテルも二人を受け入れようとはしなかった。

 ちなみに、ニューヨークは、ゴーリキーには恐ろしく気に入らず、彼はこの都市を、人間を呑みこむ「黄色い悪魔」や鉄の怪物に喩えたりしている。そして、その拝金主義を非難している。

 米国旅行を文学作品に描いたという点で最も有名な作家に数えられるのがイリフとペトロフだ(イリヤ・イリフとエヴゲニー・ペトロフの二人組のソ連の作家)だ。旅行記『一階建てのアメリカ』で、車で東から西まで横断した様子を描いている。