エリザヴェータ・ペトロヴナの時代から、ロシアの専制君主たちはバレエが好きになり、ヨーロッパの最高のダンサーたちを招いた。世界の舞踊史の中で、ロシアで評価されなかった素晴らしいダンサーを見つけるのは難しいほどである。しかしロシアバレエの歴史の一部となり、ロシアバレエを一気に世界的なものに押し上げるのに尽力した外国人がいたのである。
シャルル・ディドロ
ディドロはストックホルムでスウェーデン王室の舞踏教師をしていたフランスのダンサーの息子であった。シャルルもここでダンスを学ぶようになり、大きな成功を収め、9歳のときにパリの最高の教師の元に送られた。しかしその後、フランス革命によってパリ・オペラ座での彼の輝かしいキャリアのスタートは断たれることとなった。彼はロンドンに行くことを余儀なくされ、1796年、ロンドンで初めて、すべての場面に自身が登場する「フロールとゼフィール」を上演し、その結果、栄光を手にし、契約を結ぶこととなった。
35歳だったディドロがロシアを訪れたのは1802年。帝室劇場バレエ団を率いたニコライ・ユスポフ公の招待によるものであった。演出家は未亡人だった女帝から最高の寵愛を受けることとなる。このことにより、彼はバレエを上演することができただけでなく、彼の立場を、その100年後に「ロシアバレエの専制君主」となる伝説的なマリウス・プティパが手に入れたのと比較できるものにすることができたのである。
ディドロはペテルブルグバレエ団のレパートリーを作っただけでなく、劇場および学校で指導を行い、数世代にわたるダンサーを育て上げ、複雑な芸術革命を行った。そしてそれによりロシアバレエはヨーロッパのバレエと比較されうるものになったのである。
フィリッポ・タリオーニ
イタリア人のフィリッポ・タリオーニはアーティストであった両親と同じ道を進んだ。バレエに出演し、演出家として活躍したが、ダンサーとしては凡庸であった。25歳のときにスウェーデンのダンサー、ソフィヤ・エドヴィガ・カルステンと結婚し、1821年には娘マリーのレッスンを始めた。
そのときには偉大なパリの指導者たちは誰も、17歳の少女をダンサーとして評価しなかった。その時代の考えでは、彼女は舞台には合わなかったのである。背が高く、細く、腰が曲がっていて、手足が長く、そして非常に美しくなかったのである。
しかしフィリッポはそれでも彼女への指導をやめなかった。毎日欠かさず、娘に4時間のレッスンを行い、その長いレッスンは彼女が失神して途切れることがあったほどだという。当時は、バレリーナには、女性らしさや妖艶さが教えられていたが、タリオーニはまったく新しいテクニックを生み出していた。娘にも着地が分からないようにジャンプし、彼女の姿が蒸発するかのように見せるため、止まったポーズのときにも、つま先立ちでできるだけ高く立つよう教えたのである。
バレエ史上もっとも重要な革命を起こしたのがこの他でもないタリオーニである。空に向かうようなダンスを考案し、つま先立ちをすることを始めたのである。マリーにこの手法を完全に伝えるために、フィリッポは「ラ・シルフィード」というバレエを作った。この作品の初演は、バレエの歴史を「現代」と「それまで」の2つに分けるようなものとなった。そしてバレエはヨーロッパのロマンティシズム、もっと言えばヨーロッパ文化の重要な一部となり、マリーはそのシンボルとなった。
こうした立場で5年を経て、1837年にマリーは父とともにペテルブルグを訪れることとなる。ここではすでに「ラ・シルフィード」が上演されていたが、劇団には芸術的なリーダーが不在で、全体に精彩を欠いていた。しかしタリオーニの出現により、ペテルブルグバレエ団はパリの流行を感じ取っただけでなく、一瞬にしてヨーロッパバレエの中心となり、ロシア人ダンサーたちは信じられないほど斬新なテクニックを習得していった。
5年間で、タリオーニは「ラ・シルフィード」のテーマをさまざまな方向に発展させ、新しい作品を作り、バレエファンたちを驚嘆させた。一方でロシアのダンサーたちは、毎日、父と娘のレッスンを目にしながら、新たな美学を学んでいった。
タリオーニがペテルブルグを去った後、バレエを観に来る観客の数は激減した。しかしロシアのダンサーたちはそれにより刺激を受け、自らパリに行くようになったのである。そしてその高い技能と芸術性で、ヨーロッパでも素晴らしい賞賛を受けた。
ジュール・ペロー
フランス人のペローは、世界のバレエ界において、もっとも謎めいた人物の一人とされている。今でも、「ジゼル」、「エルメラルダ」、「オンディーヌ」、「コルサール」など、彼の名前が刻まれたバレエが上演されているが、その中に最初の作者の振り付けがどれほど残されているのかは分からない。
ペローはロマンティック・バレエの優れたダンサーであり、アーティストであり、マリー・タリオーニのパートナーであった。ちなみに演劇界の伝説によれば、マリーは自分より彼が目立つのが気に入らず、ペローがパリ・オペラ座に招かれないようにするため、あらゆることをしたという。そこで優れたダンサーは、イタリアに行き、そこで若き日のカルロッタ・グリジを見出す。16歳の少女をタリオーニのライバルにまで育て上げ、しかも非常に美しい女性に変えたのである。グリジはペローの教え子であり、ミューズであり、恋人であり、そしてオペラ座への扉を開ける「鍵」でもあった。そしてこの扉は実際に開かれたのだが、カルロッタは自身のピグマリオンをそこに誘い入れることはなかった。
2人は10年後にペテルブルグで出会う。ペテルブルグでグリジは自分のことを、かつてタリオーニがそう感じていたのと同じように、天上の住人だと感じていた。ペローは怒りを忘れるかのように、この「スミレ色の瞳をした少女」の才能が輝くバレエ作品を作りなおした。そのとき、ペテルブルグのバレエ団はヨーロッパ最高の群舞と非常に幅広いダンサーを擁しており、彼らはスターたちのパートナーとなった。そしてペテルブルグはペローのすべての傑作をレパートリーに有することになった。そしてペローは何十年にもわたって、その作品を守り続けた。のちにマリウス・プティパによって改訂はされたのであるが。
ペローは死の直前に、祖国フランスに戻った。そんな彼を見送ったのは、ロシア人の妻で、2人の子どもの母親であったごく普通のロシア人、カピトリーナ・サモフスカヤであった。
アルトゥール・サン・レオン
フランスの舞踊家で振付家のサン・レオンはわずか48歳でこの世を去ったが、彼の人生は、近代的な長編のドラマシリーズの題材となるほど、多彩で濃いものであった。ダンサー一家に生まれたサン・レオンはペローのバレエの主役を演じ、パガニーニの元でヴァイオリンを学び、ヴァイオリニストとして公演を行い、バレエを振り付け、独自のダンスの記録システムを確立した。
ペテルブルグに来たのは38歳のとき。すでに演出家として成功を収めており、彼の作品はミラノ、ウィーン、ロンドンなどで上演されてもいた。彼をロシアに引き寄せたのは、研究者としての興味であった。サン・レオンは自身の多くの仲間と違い、なんでもやれることをし、重要な出来事の中心にいて、前進したいという気持ちが強かったのである。1860年代のロシアは振付師としてのキャリアを伸ばすのに最高の場所であった。
彼が非常に真剣に取り組んでいたことが分かるのは、1859年の11月に帝室劇場と契約を結んだわずか2週間後に彼が最初のバレエ「ジャヴォット」を発表したことだろう。サン・レオンは、よく働く19世紀のダンサーの中でも群を抜いていた。休むことなく、ベルトコンベアーのように踊り続けることができただけでなく、同時代人の証言によれば、彼の中には、バレエのテーマや構成が頭の中に溢れていたという。
彼はポワントでのクラシックバレエ、(しかも群舞もで、これはその時代には非常に新しいものであった)、ヒールでの民族的なキャラクターダンス、そしてアンサンブルや集団でのダンス、ソロ、男性もの、女性もの、子どもものなどを振り付け、こうした想像力には終わりがないほどであった。そしてサン・レオンより12年も先に来ていたマリウス・プティパは、人々の行列の中から、ライバルのスターたちがどこまでも駆け上がって行くのを指を加えて羨ましげに眺めているしかなかった。
ペテルブルグで10年働いた後、サン・レオンの前にパリ・オペラ座の扉が開かれた。当時のすべてのアーティストにとっての秘めたる夢であった。そこで彼はペテルブルグ劇場のメートル・ド・バレエを務めながら、そこで最初の振り付けに着手した。「コッペリア」の初演は1870年5月25日に大成功のうちに幕を閉じたが、彼はその3ヶ月後に急逝した。疲弊していたのに違いない。
これを受けてペテルブルグでは、マリウス・プティパがついに第一振付家の座を手にした。彼はこの日をほぼ四半世紀待っていたのである。そして彼がこのときまで、従順に単調な作業をしていたわけではなく、先駆者たちの技術を習得していたことが明らかとなるのである。