オピニオン:ロシア人の不条理な「パン崇拝」とは?

アレクセイ・クデンコ撮影/Spuntik; ミーチャ・アレシコフスキーTASS
 ソ連時代の食料危機をどう記憶すべきかをめぐり、二人の人間がオンラインで非難し合った。ノヴゴロドのパン屋さんが、白パンを多数ぶら下げたクリスマスツリーを作り、市民を激怒させた。老婆が、パンの10倍の栄養価を含む米の袋ではなく、パンを買うためだけに通りで物乞いをする。こういった現象には不条理な背景があり、それは分析を要する。

 現在のロシアは比較的住みやすい場所ではあるが、アイデンティティをめぐる問題を抱えている。今日、ロシア文化はこれまで以上に、ある種の精神的支柱に依存している。その支柱とは、我々ロシア人を団結させ、現代的な国民意識を共有させるものだ。例えば、宗教、年長者に対する態度、母性などがそうした支柱であり得る。

 ロシアにとっては、「飢餓の逆境を通じての絆」は、それ自体がそうした支柱だった。今日、ロシア人はもはや単に「サバイバル」しようとしているわけでない。しかし、このアイデンティティを更新する何か強力な理由がない以上、そのカルト的な性格は引き継がれる。

パン崇拝 

 詩、歌、宣伝ポスター…。もっぱらパンの尊重に基づくモラルの体系が、1940年代につくられた。子供の頃、ぞんざいにパンを扱ったために、両親に罰せられたり、人々の面前で叱られたりすることがあった。

 そういうしつけをした学校教師の最後の世代はもう70代になっているだろう。しかし彼らの考え方はほとんど変わっていない。

 私は週に一度、母を訪れ昼食をともにするのだが、パンをめぐってしばしば議論を交わす。私が食べるパンの量は、ここ何年か減ってきているのに、母にとっては、食事のたびにパンをたくさん出すのが揺るぎない習慣になっている。それで母は、私に必要以上のパンを出す。私が空腹でないようにと。私は、あまり多すぎるよ、と母に文句を言う。私は食べ残しのパンを見たくないからだ。こういうことが長年続いている。

 一つ言っておかねばならないが、私たちの家族は飢えたことはない。私たちは単にある文化を演じているだけだ。芝居で一定の役割を演じているようなものである。ロシアでは、感謝祭の七面鳥さながらに子供の胃袋に詰め込むことは、いわば日本人がお辞儀をするようなものなのだ。そう、それは習慣である。しかし、その習慣は古くからの信念に根ざしたものではない。発明された伝統だ。

 私の祖父母の世代は、戦時中に子供として経験した空腹の日々を覚えている。1950年代初頭までソ連は、戦争によるダメージを管理する態勢にあった。とりわけ、食料不足に立ち向かうという困難な課題があり、ソ連政府は、国民唯一の救世主として確固たる地位を築くことが不可欠だった。

 それは、言い換えると、社会からあらゆる信仰を取り去ることだった、ただ一つ、国家主権に対する信仰をのぞいて。しかし、これは難しいことではなかった。飢餓は現実であり、国家はそれを解決する独自の態勢を整えていたからだ。

 戦時中、ソ連国民は、パンの配給券を与えられた。特に、ドイツ軍に封鎖されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)では、飢餓が蔓延していたので、パンが有るということは生存と同義語だった。他の食品、例えばジャガイモは、そうした地位を獲得したことはない。キャベツも同様だ。

 だからパンがあるということは、満ち足りた国に住んでいることになる。こうした観念、イメージを、20世紀の残りの期間、政府は当てにした。なぜなら、そういうイメージが大衆を団結させたからだ。

 反宗教、無神論を標榜したからといって、ソ連が本質的に宗教的でなかったというわけではない。第二次世界大戦が勃発した時までには、組織化された広い意味での宗教的表現が回帰していたが、それ以前もロシア人は常に、カルト的な信条の周りに人々を組織化することに長けていた。そうした信条、信仰は、本来はありふれたものだったのに、困難な時代に神秘的な特性を帯びた面がある。

 例えば、第一次世界大戦でロシアが被った甚大な損失は、より大きな善のためには犠牲を甘受するとの信念に基づいて、一種の「死のカルト」を生み出した。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの個人崇拝も非常によく知られている。パン崇拝が生まれたのはまさにそうしたロシアの土壌においてだった。農産物の崇拝そのものは何ら新しい現象ではなかったが、我々は何千年もそれを続けてきたのだ。

換言すればソ連とは宗教なり  

 スターリン時代を、先入見をもたずに厳密に論じるのは困難をきわめる。この男は明らかに何千万人もの死に対し責任を負っているが、彼はまた、信じ難いほど急速な発展の背後にいた人物であり、その急成長により歴史の忘却の淵からこの国を救い出したとみなされている。

 世界最大の国には、しかもいまだにほぼ農業国で国民の大半が文盲であるような国には、奇跡が必要となる。だから、どんな考えも出てくるだろう。

 今日では、非人道的な集団化を覚えている者もいる。また、スターリンが急速な工業化計画で成果を上げたことを覚えている者もいる。どちらも本当だ。しかし、ソ連に住んだこともない人たちのなかには、さらに他の主張をする者もいるが。

ソ連の宗教性は悪影響をもたらす偽善だった

 1940年代のパン崇拝とその後半世紀続いたキャンペーンは、人々の心にしっかりと刻み込まれた。あまりにしっかりと刻み込まれたので、彼らは起こっていたことを説明されても、それにはまだ同意できない。だから、ここで論じているのはパン崇拝の有無ではない。それがいかに吹き込まれ、実施されたかだ。

 これに関し、人々は、年齢ごとに異なる反応をする傾向がある。ソ連政府のイニシアチブによって救われたことを覚えている人もいるだろう。「お前は、帝政時代には今よりもパンを食べられなかった。だから黙って、与えられたものを食べろ」というわけだった。

 しかし、1950年代に生まれた彼らの子供たちは、偽善と浪費を思い出すだろう。それは、スターリンによる集団化計画の結果として生じたものだ。集団化は、管理がいい加減なまま、まったく非人道的に行われ、最大1200万人の命を奪った。

 多くの人々は、アフリカの飢えた子供たちに関するニュースや、ロシア人自身がかつて飢餓で街路に斃れた事実には影響されなかった。少し古くなったパンは犬に与えられるか、さもなくば捨てられることが多かった。

 村の協同組合によって生産されたより質の悪いパンは、はっきり動物飼料として購入されることさえあった。人は、聖なる物をこんな風に扱うことはまずないはずだが。

 その一方で、キャベツやジャガイモの山が市場で腐敗していた。「パン陛下」と比べると、それらの食品は宗教的崇拝の念を得られなかったため、人々は、それらの栄養価については比較的無知だった。

 「パンはすべてを支配している」と我々は言ったものだ。パンは最悪の時代に我々を救うめぐり合わせになったからだ。そして、我々が過ごした時代は、良い時代より悪い時代のほうが多かった。

 1950年代初めまでに飢餓はほとんどなくなったが、パンの「ゾンビ化」は1990年代初めまで続いた。

 私自身が通った学校の校舎は、さらに10年間にわたって、ソ連のシンボルで満たされていた。パンについての詩、宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンの壁画、明るい未来に向かって行進しているピオネール(共産党の少年団)…。こういったシンボルの上にゆっくりと他の絵が塗り重ねられていった。

では、なぜ我々はなぜまだパン崇拝の余波のなかにあるのか?

 過去の解釈について人々は議論をするものだ。なぜなら、それは我々が何者であるのか、そして我々がどこへ向かっているのかをよりよく理解するのに役立つからだ。しかし、過去が文字通り30年も前のことになると、解釈は難しい。そのシンボルはもはや我々にとって何の役にも立たない。

 パンはそれほど栄養価が高くなく、飢餓からの救済の連想は、常にある種の農業上のPRであった。だからこれは、国が解決すべき問題なのだ。

 つい数か月前、2019年1月初めのこと、ノヴゴロドでは、地元のパン屋が白パンでクリスマスツリーを作ったせいで、市民が押し寄せた。

 新聞報道によると、人々は「ひどい」、「恥知らず!」 、「このひどい代物をとっとと片付けろ!」といったメッセージを投稿した。その一方で、「それはただのパンにすぎない」、「それは本物でさえない」といった反論もあった。いずれにせよ、この話は、多くの新聞で、黒白つかない論争で終わったのである

 地元のグループで、「パンが古くなっていたとしても、それは問題ではない」と、ある人が書いている。これは、パンの重要性が単なる食べ物に尽きないことを示している。

 他の場所では、2人のブロガーがパン崇拝がいかに記憶されるべきかについて論争し、互いに侮辱し合っている。予想通り、2人のうち年上のほうは、若い相手がパンのプロパガンダのネタをソ連をチクリとやるために用いたというので、お前は「反ソ的」だと決めつけている。

 両者ともはっきりした論拠を持っているが、二人の主張は、それぞれの年齢にちょうどふさわしいように見える。しかし滑稽なのは、二人のうち年上のほうさえ、最悪の時期を生きたことがない点だ。彼は1950年代半ばに生まれたので、彼がやっつけようとした若いブロガーと同じくらいの空腹しか感じたことはなかっただろう。

 ソ連世代がこの世からいなくなるまでは、ロシア人がソ連のシンボルを放棄し得る理由はほとんどあるまい。歴史と「実際に起きたこと」についての議論は、それ自体が本質的に歴史的なものだ。特に、彼らが生きたことのない国について云々するのを好む若者の議論は「歴史的」である。

 それは、ソ連が、そのあらゆる問題点にもかかわらず、現代ロシア人が決して真に理解できない巨大な企図であったからだろうか?

 確かにそれはあり得ることだ。このことは、なぜソ連史がこれほど外側から及び腰で扱われるのかを説明してくれるだろう。ソ連の企図の巨大さを再現しようと試みることは――たとえ我々による再現が見当違いなものだとしても――今の現実よりはエキサイティングだ。今日では、我々は生存をかけて戦うことも、未来を夢見ることもない。

 ソ連国民は惨めであったこともあるが、その時は皆いっしょに惨めだった。新しいロシア人は、古いロシア人のパンへのこだわりを笑う。だが、少なくとも後者は何かを持っていた。新しいロシア人には新しい文化的シンボルはない。我々はただグローバル化されたソビエト文化のディーラーであるにすぎない。

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