レーニンとディオールのコラボ:ソ連の産業デザインに仏デザイナーたちも影響

カルチャー
ゲオルギー・マナエフ
 今日、ゴーシャ・ルブチンスキー、ウリヤナ・セルゲーエンコ、イーゴリ・チャプリンら、ロシアのデザイナーは非常な人気を誇っている。しかし元をたどれば、これらのデザイナーは、ソ連の産業デザインの衣鉢を継いでいる。このシステムはどのように始まり、どのように機能していたのか。ロシア・ビヨンドは、当時を知るロシアのデザイナーたちに話を聞いた。

 「労働と防衛の備えあり!」。このソ連のスローガンは、ゴーシャ・ルブチンスキーの有名なスエットシャツに、ソ連風の簡潔な書体であしらわれている。かつて1930年代、この言葉は、「常にソ連を守る用意をもて」と、ソ連国民に呼びかけた。このことは、ソ連のデザインもまた、同国の建国者ウラジーミル・レーニンによって、その基礎が築かれたことを思い起こさせる。

ソ連初のデザイナーはレーニン

 レーニンは、デザインというもののイデオロギー的、産業的重要性を理解していた。その彼の指令により、ロシア革命後間もない1920年には、国家が管理する美術学校「高等美術・技術スタジオ」が、モスクワに設立された。この機関の目的は、レーニンの言葉によると、「産業分野の最高水準の美術家、建築家および専門技術教育の管理者を養成すること」

 アヴァンギャルドの美術家が雇われ、広告、公共のスペース、書籍、演劇などをデザインした。ソ連の産業デザインは、家具、自動車、商標とロゴ、ファッションなどのデザインも含んでいた。

 ロシア・アヴァンギャルドは、ヨーロッパのアートシーンと緊密に絡み合っており、ロシアのデザイナーは欧州の同業者とともにアイデアやアプローチを探求していく。

 ロシア最初の有名な女性服デザイナー、ナジェージダ・ラマノワも雇われて、「ロシア・コレクション」を制作し、1925年のパリ万国博覧会に出品して、その斬新さで驚嘆させた。

 しかし、スターリン時代の1930年代に入る頃までには、ソ連の国家にとっては、軽工業の広い分野に、共通の基準と中央管理が必要である、ということになった。

コスイギン首相からの支援

 1930年代と第二次世界大戦後の数年間、ソ連は軽工業部門の管理を強化した。こうして軽工業省が1946年に創設されたが、ソ連の産業デザインにはまだ「本部」がなかった。

 デザイナーでファッションマネージャーのアーラ・レヴァショワは、ソ連ファッション業界の中央管理の理念を積極的に推進していった。彼女は、ソ連上流社会の一員でもあり、全能のアレクセイ・コスイギン首相(閣僚会議議長)とビジネス関係を築いていた。コスイギンは、洗練された芸術上の趣味を備えていた。

 彼の支援を得て、1962年にレヴァショワは、軽工業省の内部に、7つのソ連の主要地域に、同数の特殊芸術・建設局を創設した。同局は、大量のデザイン・ソリューションを開発し、サンプルを各地の産業に送った。

 「サンプルのいくつかは、ソ連の現実からすると、考えられないようなものだった。私たちデザイナーは、自宅で仕事をすることができ、アート協議会に参加するためだけにオフィスにやって来た」。1970年代後半にモスクワの同局で働いていたデザイナー、タチアナ・コズロワさんは、こう当時を振り返る。「彼らの作品を見たとき、私たちは、彼らが天才的なグラフィックアーティストであることが分かった」

 「雰囲気はとてもクリエイティブだった。デザインの参考になりそうなものなら何でも持ち寄った。古い本、錫や陶器の皿、革命前の工場のロゴのついたマグカップ、古い紋章の絵…」。やはり同局で働いていたデザイナー、ボリス・トロフィモフさんは回想する。「先史時代のアートや伝統文化の工芸も学んだ。それは、最初の未来派や構成主義者がインスピレーションを受けたのと同じ場所だった」

 この局はまた、衣服から冷蔵庫、缶詰、自動車その他にいたるまで、あらゆる業種の貿易用ロゴマークを制作した。それは類例のない、中央管理されたデザイン・システムだった。

イヴ・サン=ローランとコラボした女性

 アーラ・レヴァショワは、自分の社会的地位とパイプを使って、伝説的デザイナー、イヴ・サン=ローランやクリスチャン・ディオールと会った。それ以来、サン=ローランのパートナー(共同創業者)であるピエール・ベルジェが監修した、新作プレタポルテコレクションが、毎年モスクワに送られるようになった。

 「でも、ディオールのカーブのラインに接するよりはるかに前に、私たちには、ファッションとモデリングの確固たる流派があった」。コズロワさんは、当時を思い出しつつ言う。

 「ロシアの衣装の歴史に関するラマノワの該博な知識。伝説的な芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフによる『セゾン・リュス(ロシア・シーズン)』のデザイン。ロシア・アヴァンギャルドの美術家による衣装。これらはすべて、次代のデザインの基礎となった」

 しかし、ロシア・アヴァンギャルドは、ソ連デザインの主なインスピレーションの源泉ではなかった、とトロフィモフさんは主張する。

 「『雪解け』の時代の前には、私たちは、ロシア・アヴァンギャルドの作品を目にすることがほとんどなかった。スターリン時代には、イデオロギー的に『正しくない』と烙印を押されていたから。しかし1960年代末までには状況は改善した。闇市では、『西側』のアート・アルバムを手に入れられたし、一部の図書館では、デザインに関するオーダー・ブックを閲覧できた。日本、ドイツ、ハンガリー、チェコのグラフィック雑誌もあり、そこからいくつかのモチーフを借用した」。トロフィモフさんは振り返る。

 だがそれは、ソ連のファッションが西側の引き写しだったということではない。ソ連のデザイナーたちは、ロシア人に合うように欧州のデザインを直し、その美的ニーズを満たした。

 「ロシア人の体形はフランス人とは異なる」とコズロワさん。「ディオールの一般的なシルエットを保ちながら、ソ連のデザイナーは、ロシア人の体のバランスに合わせて、ディオールのフランス的カーブを修正した。そうして生み出された、新しいカーブをもつファッションは、ソ連のすべての構成共和国に送られた。こうしてソ連のファッションは見事に洗練されたものになった」

21世紀に向かって

 1980年代になると、ソ連のファッション業界は再編され、いくつかのコレクションが欧州に再び出品された。しかし、ソ連が崩壊すると、特殊芸術・建設局を担った主なデザイナーたちは、それぞれ別々の道を歩むようになる。

 ロシア初の西側風のファッションハウスは、デザイナー、スラーヴァ・ザイツェフによって設立された(彼は、ロシアの繊維業の中心地、イヴァノヴォ市で生まれた)。彼は、その木綿の作業服のデザインがフランスの雑誌「Paris Match」に掲載されたことで頭角を現した。

 ザイツェフと他のソ連のデザイナーとの主な違いは、彼が初めて個人のブランド名「Slava Zaytsev」で制作したことだ。カリスマ性、目立つ外見、そして彼が生み出す鮮やかなデザインにより、ザイツェフは、ソ連のデザイナーたちとは一線を画した。彼らは、欧米の華麗で独創的なドレスメーカーよりも公務員に似ていた。

 1970年代に入る頃には、ザイツェフはもう「赤いディオール」“Red Dior.”と呼ばれていた。1980年代後半には、彼のコレクションは世界のキャットウォークで注目された。1988年にはパリで、コレクション「セゾン・リュス(ロシア・シーズン)」が発表され、その1年後には、メンズコレクションがフィレンツェでも披露される。

 その頃ザイツェフは、ソ連初のファッションハウスを率いるようになる。これは、そのメインのデザイナー、すなわち彼の名を冠して、「スラーヴァ・ザイツェフ・モスクワ・ファッション・ハウス」と命名された。

 ザイツェフは今日でも依然として最も人気のあるソ連 /ロシアのデザイナーであり、2007年にはロシア芸術アカデミー会員に選ばれた。

 トロフィーモフさんによると、ロシア・アヴァンギャルド芸術のファッションへの影響は、今ではソ連時代よりもはるかに重要であるという。

 「現代世界がもたらす機会、可能性は、実に大きい。展覧会を例にとると、最近、トレチャコフ美術館で、偉大なエル・リシツキーの回顧展が開かれた。そこには私たちがかつて見たことのない作品があった。今では、アバンギャルド芸術が以前よりずっと面白い形で見直されていると思う。今や、視覚文化に対する新しい、より広大な認識が前面に出てきたことを私は喜んでいる。だから、現代のファッションは、あらゆる源泉からインスピレーションを汲み取っている。が、私たち自身に関して言えば、すべては、特殊芸術・建設局から始まったのだった」