「フーリガン共産主義」:なぜソビエト政権は自身の最初のプロパガンダを禁止したか?

カルチャー
オリヴァー・ベネット
 詩劇「ミステリヤ・ブッフ」は、詩人マヤコフスキー、俳優・演出家メイエルホリド、画家マレーヴィチという、アヴァンギャルド芸術の輝ける旗手たちによる「未来派」的な傑作であったにもかかわらず、ソビエト政権の検閲の最初の犠牲となった。

 今から100年前のある暖かな日に、少数の友人たちが、ソビエトの劇作家による初の朗読を聞いた。すなわち、詩人ウラジーミル・マヤコフスキーが、教育人民委員(教育相)アナトリー・ルナチャルスキー、有名な演出家フセヴォロド・メイエルホリドなどを含むグループに、「ミステリヤ・ブッフ」を読んで聞かせたのである。なお、ミステリヤは、聖書に題材をとった宗教劇、聖史劇だから、そのパロディ、笑劇といった意味になる。

 この詩劇は、ボリシェヴィズムを鼓吹する作品であり、1918年にペトログラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)で、3回上演された。舞台装飾と衣装は、画家カジミール・マレーヴィチのデザインによる。3人のラディカルな大芸術家が社会主義革命1周年を祝った、この初のソビエト演劇は、まさしく純粋な輝きを放っていたかに見えた。ところが…その後の運命は暗転する。


不吉なスタート

 演劇創造のプロセスは妨害に遭い、観客は無関心だった。 レーニンはこの劇を「フーリガン共産主義」と呼んだ。しかし、時代にマッチしたように見えたショーに、なぜこれほどの敵意が向けられたのか?

 そもそもの発端からしていささか不穏だった。十月革命の数日後、ルナチャルスキーは教育人民委員として、新時代の芸術への革命的アプローチについて議論するため、会合を開いた。 数百人のアーティストが招待されたが、やって来たのは5人のみで、そのなかにマヤコフスキーとメイエルホリドがいた。

 なぜこんなにわずかだったのか?当時はまだ、行く手は五里霧中の不確実な時代だった。すべての劇場がルナチャルスキーの管理下にあったとはいえ、芸術家の多くはボリシェヴィキ政権をあまり信用しなかった。しかし、これらの5人は信じた。メイエルホリドの伝記作者、エドワード・ブラウンは、これを「信念にもとづく危険な行為」と呼んだ。

 「ミステリヤ・ブッフ」は、マヤコフスキーのトレードマークともいうべき溌溂としたダイナミックな韻文で書かれた、ある意味で奇妙な演劇だ。旧約聖書の「ノアの箱舟」の話が、産業化された時代に持ち込まれる。ここでの洪水は革命の比喩で、ブルジョアの世界を浄化することになる。「新しい普遍的人間」は、プロレタリアートたちを機械化された楽園に導く。そこでは、人間はいろんなツールや食べ物を思うがままに手に入れられる。

 この芝居のキャストは巨大なもので、70人以上の登場人物が、修辞的な演説調でしゃべり、演じる。保守的だった俳優連盟は、マヤコフスキーの伝記作者、アン&サミュエル・チャーターによると、ひとこと「未来的」と評した。これは、「彼らが理解できないものすべてにかぶせた言葉」だった。

 この劇を見ると読むと、私たちは確かに、アントン・チェーホフの戯曲に出てくるサロンなどからは、遥かに隔たった地点に連れ去られてしまう。マヤコフスキーは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を踏まえて、旧来の「他の劇場」を皮肉りながら、プロローグにこう書いている。

 

 ソファに御輿を据えて鼻声でおしゃべりしてる。

 マーニャ伯母さんや

 ワーニャ伯父さんみたいな連中が。

 でも、ぼくたちにはどうでもいい、
  そんな伯父さんや伯母さんのことなんか。

 伯父さんや伯母さんはどこの家にもいるんだから!

 我々もひとつ本物の生活というものを見せてやろう

      

 マヤコフスキーは、演劇が目に見える現実をそのまま模倣することは望まなかった。 そしてこれは、マレーヴィチのデザインへのアプローチでもあった。「私の仕事は、ステージの外に存在する現実を連想させるようなものを作ることではない。新しい現実の創造だ」。マレーヴィチはこう言った。

 芝居は、俳優たちが舞台に出てきて、当時流布していたポスターを破り捨てるところで始まる。これが、革命的劇場の舞台から旧来の劇場にたたきつけた、いわば「宣戦布告」だった。

 

上演の失敗

 ペトログラード音楽院は協力的ではなく、シナリオのコピーの販売を拒んだ。リハーサル室の扉は閉ざされ、舞台セットに使う釘は、厳重にしまい込まれていた。

 俳優たちも、このプロジェクトには非常な疑念をもっており、大半がこれに関わることを拒否した。

 そこで、新聞にはこんな広告が載せられた。「同志諸君!革命の偉大なる一日を革命的なショーで祝うのはあなたの義務である」

 結局、俳優、人員が足りず、学生たちを使わねばならなかった。またマヤコフスキーは、自分でいくつかの重要な役を演じねばならなかった。

 早い話が、ほとんどの批評家は、この芝居を二度見る価値があるとは思わなかった。その後、演出家ウラジーミル・ソロヴィヨフは、「観客にはピンとこなかった。鋭い辛辣な場面も…石のごとき沈黙で迎えられた」

 屋外での公演はキャンセルされ、「未来派」たちはメーデーへの参加を禁じられた。ボリシェヴィキ政権当局は、こういうスタイルがプロレタリアートの気を腐らせるのではと心配した。


悲劇的な運命

 今から振り返ってみると、このショーの顛末は、マヤコフスキー、マレーヴィチ、メイエルホリドのその後の運命を予告していたようだ。「ミステリヤ・ブッフ」上演からわずか12年のうちに、彼らすべてが死んでしまう――しかも老齢のせいではなく。 

 1930年のマヤコフスキーの自殺はかなりの部分、精神的な問題や愛人リーリャ・ブリークとの複雑な関係のせいであることは間違いない。しかし、ソ連当局との絶え間ない葛藤は、生きること、創造することができぬという地点に彼を追い込んだ。

 マレーヴィチの作品は、抽象的かつ「ブルジョワ的」であると決めつけられて、禁止、没収された。1930年には、投獄されて癌を発症。1930年代初めに具象的な絵画で活動を再開したが、1935年に死んだ。

 最も悲惨だったのはメイエルホリドだ。彼の芝居は禁止され、劇場は閉鎖。やがて逮捕、拷問され、処刑されたうえ、彼をめぐる歴史は歪曲された。

 こうして1918年にリハーサル室のロックアウトから始まったことは、1940年にルビャンカ(ソ連の秘密警察「KGB」の通称)の監獄で終わった。

 

革命後の楽観論から大粛清への道

 実際このように、革命直後の楽観論はやがて、1930年代のパラノイア、検閲、殺人につながっていった。これは主に、スターリンの人格、そして彼がソビエト的リアリズムの公式イデオロギーを押し通したことによる。確かにそれは大きな役割を果たしたが、おそらく真実はもっと根が深かった。

 1918年の「ミステリヤ・ブッフ」への当局の速やかな反応は、実はその内容において、大粛清時代のアヴァンギャルド芸術に対する論拠と異なるものではなかった。つまり、それは一般人にすぐさま分かるようなものではない、したがって、ブルジョア側のものだ、という言い分だ。

 ルナチャルスキーが「ミステリヤ・ブッフ」について語ったように、それは「新しい世界には理解できない」ものだった。この芝居がたどった歴史は、ボリシェヴィズムと芸術が当初から難しい関係にあったことを示している。

 彼らがイデオロギー上の路線に沿っているように見えたときでさえも、そして、100年前の実験的で革命的な雰囲気のまっただなかにあったときでさえ、これらの芸術家たちはあまりにも独立したラディカルな存在であった。