チャイコフスキー国際コンクール創設60年:ここから世界に羽ばたいた5人の音楽家

カルチャー
アンナ・ガライダ
 数々の名演奏家を輩出してきたチャイコフスキー国際コンクールが、初めて開催されたのは冷戦まっただなかの1958年。今からちょうど60年前のことだ。現在、世界的指揮者ワレリー・ゲルギエフをはじめとする著名なロシア人音楽家からなる委員会が組織・運営している。このコンクールでインスパイアされ、世界の檜舞台に躍り出た音楽家を思い出してみよう。

1. ヴァン・クライバーン

 その後の音楽家としてのキャリアへの影響という点で、アメリカのヴァン・クライバーン(1934~2013)に匹敵するケースはほかにないだろう。彼は、1958年の記念すべき第1回コンクールのピアノ部門で優勝を飾った。

 当時、このコンクールはまだ巨大な音楽産業にはなっておらず、ソ連はようやく「鉄のカーテン」をほんのちょっと持ち上げ始めたところだった。

 テキサス出身の23歳の青年は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番とラフマニノフの協奏曲第三番を、ロシアの伝統的奏法を思わせるスタイルで、しかも自由奔放にかつ情感を込めて弾き切り、モスクワっ子のアイドルとなった。だが、ソ連の方針としては、優勝者はソ連の代表でなければならなかった。

 これに対して、審査員を務めていた大ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルは、ヴァン・クライバーンに満点をつけ、こうした方針を厳しく批判した。

 結局、優勝者をめぐる問題は、クレムリンのレベルで決定されることになり、ソ連指導者ニキータ・フルシチョフの承認を得て、第一位は、米国のヴァン・クライバーンということに落ち着いた。ちなみに彼は、ロシア帝国出身のアメリカのピアニスト、ロジーナ・レヴィンに師事している。

 モスクワでの勝利は、彼に素晴らしい音楽の世界の地平を開いた。彼はグラミー賞を受賞した最初のクラシック演奏家である。彼のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の録音は、クラシック音楽としては初めてプラチナ・ディスク(全米で100万枚以上の売り上げたアルバムに贈られる賞)を獲得し、その後も2度得ている。

 

2. ナターリア・グートマン

 ナターリア・グートマン(1942~)は、1962年のコンクール(チェロ部門)では3位に終わった。しかしこれは、彼女が国と民族の壁を超えた音楽家に大成することを妨げはしなかった。

 グートマンは、第二次世界大戦中にカザンに疎開した音楽家一家に生まれた。母親はピアニスト、父方の祖父はヴァイオリニストで、ソビエト連邦放送交響楽団(現モスクワ放送交響楽団)のコンサートマスターであり、継父もチェリスト。彼らから、彼女は最初のレッスンを受けた。

 グートマンの音楽的成長で決定的だったのは人との出会いだ。レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)の大学院では、大チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチに師事。また長年リヒテルと交流し、彼の主宰する音楽祭「12月の夕べ」に参加している。いわゆるリヒテル・ファミリーの一員だ。

 さらに、夫のヴァイオリニスト、オレグ・カガンとのデュエットも、ソ連・ロシアの音楽史の重要な一頁をなす。

 今彼女は、後進の指導にも力を注いでいる。グートマンの弟子のなかに、最近のチャイコフスキー・コンクールで入賞したアレクサンドル・ブズロフがいる。

 

3. ギドン・クレーメル

 ギドン・クレーメル(1947~)は、1970年のコンクールにソ連を代表して出場した。モスクワ音楽院で名ヴァイオリニスト、ダヴィド・オイストラフに師事しており、既に1967年、ブリュッセルで開かれたエリザベート王妃国際音楽コンクールで3位、1969年のパガニーニ国際コンクールで優勝というキャリアを積んでおり、チャイコフスキー・コンクールでも予想通り第一位となった。

 彼は、ヴァイオリニストの家族に生まれ、祖父と父により3歳から手ほどきを受けていた。ここまでなら、現代の神童の成功物語というべきか。

 だが、神童物語のありきたりの展開はこれまで。彼は、音楽産業の一部に受け身で組み込まれることに甘んじなかった。これに組み込まれるとはつまり、コンサート、空港、飛行機、ホテル、指揮者、オーケストラをとっかえひっかえし、比較的狭いレパートリーの範囲内で名人芸を示すことだ。

 ソ連から亡命した彼は、自身の音楽祭とオーケストラを創設し、自分が本当に好きな作曲家の作品に焦点を当てた。今日では、アルフレート・シュニトケ、ギヤ・カンチェリ、レオニード・デシャトニコフなどの作曲家は、現代の古典と認識されているが、これはクレーメルの努力によるところが大きい。

  

4. ヒブラ・ゲルズマーワ

 ヒブラ・ゲルズマーワ(1970~)が1994年チャイコフスキー・コンクールに出場したのは、まだ彼女がモスクワ音楽院の学生だったときで、声楽部門で大賞を得た。極めて透明な声質、華美に流れない唱法。ロシア最高の教師の一人、イリーナ・マースレンニコワの指導を見事に体得した彼女は、しかし、コンクール最高の「収穫」とは必ずしも思われなかった。発声の鮮烈さ、力強さ、あからさまな超絶技巧といったものを評価する立場からすれば。

 今から20年以上も前の当時は、このアブハジア出身の女の子の勝利は、多くの論争を呼び起こしたものだ。だが、彼女の勝利の正しさを疑った者に対して彼女は、その後のキャリアをもって応えた。

 ゲルズマーワが選んだ劇場は、モスクワのスタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ音楽劇場である。彼女はボリショイ劇場を選ぶこともできたし、後にはサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に移るチャンスもあったのだが。

 もちろん彼女は、ロシアのオペラ・バレエの殿堂で歌うことは重んじているし、それは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場やロンドンのコヴェント・ガーデンなどの世界の檜舞台でももちろん同じことだ。

 だがゲルズマーワは、自分の劇場に忠実であった。ここで彼女は、リムスキー=コルサコフ「サルタン皇帝」(プーシキン原作)の白鳥皇女から、オッフェンバック「ホフマン物語」まで様々な役を歌っている。とくに後者では、主要な女性の役をすべて歌っており、これは珍しいケースである。

 

5. リュカ・ドゥバルグ

 リュカ・ドゥバルグは24歳のフランス人のピアニスト。2015年のいちばん最近のコンクールでは、むしろ「アウトサイダー」で4位にとどまった。しかし、モスクワっ子にとっては、いわばヴァン・クライバーンの再来で、アイドルにして勝利者となった。

 彼のコンサート活動は徐々に世界の檜舞台に広がっているが、ロシアほど成功を収めているところはない。まるで19世紀のフランツ・リストのブームが音楽ファンに戻ってきた感がある。彼の演奏の洗練、それと同時に「ガリア的な」態度、繊細さと、個々の作品への深く個性的なアプローチ。これらはすべての音楽ファンの心を掴んで離さない。