すったもんだの「労働者とコルホーズの女性」像

カルチャー
オレグ・エゴロフ
 「労働者とコルホーズの女性」像は、ナチス・ドイツとにらみ合い、VDNHに落ち着いた。

 全身ムキムキの男性と、サンドレスを着た筋肉質の女性が、鎌と槌を持って一緒に立っている。労働者とコルホーズの女性像は、ソ連の労働者階級と農民の永遠の団結を象徴するために建立された。

 ソ連の実際の労働者と農民と同様、この像はさまざまなことを経験してきた。

1.     古代ギリシャの彫刻にインスピレーション

 この像は、1937年パリ万博のために、社会主義リアリズムの彫刻の達人ヴェラ・ムヒナによって制作された。ソ連が建国されてからは初参加となるこの万博で、政府(ヨシフ・スターリン政権)は国威を示したいと考えていた。

 ムヒナと建築家ボリス・イオファンは、労働者とコルホーズの女性像の設置先であるソ連パビリオンの準備作業を行っている時に、古代ギリシャのハルモディオスとアリストゲイトン(アテネの僭主の暗殺を試み、民主政をもたらした者たち)の彫刻のペアからインスピレーションを受けた。労働者とコルホーズの女性像は、逆に、地球上で勝利を収める社会主義国家を表すものであった。

 イオファンの回顧録によれば、パビリオン自体がソ連の主要な展示品だったのだという。

2.     トロツキーが描かれている?

 ムヒナが像を制作している間、おもしろいできごとが起こった。ムヒナがコルホーズの女性のスカートのギャザーにレフ・トロツキーの顔をこっそり描いていると、あるエンジニアがスターリンに手紙を書いたのだ。

 今ではバカバカしい話であるが、当時は笑い飛ばせるような主張ではなかった。1937年はスターリンの大粛清が行われていた時期で、これが真実ならばムヒナは深刻な問題に直面する可能性があった。当局は像の隅々まで調べたが、スターリンの敵対勢力の痕跡はなかったため、ムヒナは助かった。

3.     ナチス・ドイツとのにらみ合い

 パリ万博では、後の第二次世界大戦で敵対することとなるナチス・ドイツとの「前哨戦」があった。ソ連パビリオンとナチス・ドイツ・パビリオンは、トロカデロの遊歩道を挟んでにらみ合っていた。

 ナチス・ドイツの当時無名だった建築家アルベルト・シュペーアが設計したパビリオンは、ハーケンクロイツつきの鷲のある「第三帝国」を象徴する建物。ソ連の社会主義のシンボルとドイツのナチ主義のシンボルの対面は、開催国フランス風のユーモアである。

 ムヒナとイオファンの傑作を称賛する人がいた一方で、「主体性のないモダニズム」と批判する人もいた。いずれにせよ、ソ連パビリオン、ナチス・ドイツ・パビリオンが、並んで万博グランプリを獲得した。

4.     置き場所に困る

 万博が閉幕した後、労働者とコルホーズの女性像は国に戻った。だがそこには問題があった。フランスで大きな台から切り離されていたため、高さ24.5㍍の像を置く場所を探さなくてはいけなくなったのだ。

 最初にボルガ川のルィビンスク水力発電所に建立することを考え、次にモスクワの雀が丘に建てて市内全域から見えるようにしようと考えた。だがどちらもうまくいかなかった。

 1939年、VDNH(国民経済達成博覧会)がモスクワでオープンした時、像は入口の前に置かれていた。パリ万博で使用された台の3分の1ほどの高さしかない台の上にあった。ムヒナはこの決定に憤り、「切り株」のような低い台によって、像の美しさが失われたと言った

5.     映画のシンボル、新しい台

 像は1947年、モスフィルム映画スタジオの公式エンブレムになった。以来、ここで制作されたソ連映画すべてが、鎌と槌を持った労働者とコルホーズの女性の映像から始まるようになった。

 2003年に像の修復が始まり、2010年に新しい姿を見せた。以前の台よりも高い34.5㍍の台の上に立ち、像の高さ24.5㍍とあわせて59㍍のモニュメントになった。これはロシアで5番目に高い。このペアは、当初の美しさを取り戻した。