酷寒を生き抜くためのライフハック

冬のオムスク市

冬のオムスク市

=アレクセイ・マルガフコ/ロシア通信
 「ロシア人は酷寒をどう生き抜くか」について、17~19世紀の西欧の画家、船員、外交官、作家らは回想記にこう書いた。

アダム・オレアリウス

アダム・オレアリウス=ユルゲン・オヴェンス作 / 「パブリックドメイン」(公有)アダム・オレアリウス=ユルゲン・オヴェンス作 / 「パブリックドメイン」(公有)

 ドイツの地理学者、歴史家、数学者であるオレアリウスは、外交使節団秘書官として1633年に初めてロシアを訪れ(彼はロシア語を話した)、その後、数回ロシアを訪問した。著書『ホルシュタイン使節団モスコヴィア・ペルシャ旅行記』の中で彼は、当時のロシアの典型的な交通手段である橇で、冬期にどう移動するかを、こう述べている。

 「私たちのうち何人かは、橇にフェルトの敷皮をしいて、その上に横になり、現地で非常に安く手に入る長い羊毛の外套にくるまる。上からはフェルトかラシャの毛布で被う。そうすることで私たちは暖かくなり、汗をかくほどで、農民たちが私たちを運んでくれている間に眠った」

 

大黒屋光太夫

大黒屋光太夫 / 「パブリックドメイン」(公有)大黒屋光太夫 / 「パブリックドメイン」(公有)

 1783年に船が遭難してロシアの海岸に漂着した船頭・大黒屋光太夫は約10年間をロシアで過ごし、エカテリーナ2世にも謁見したが、のちにその体験記が本にまとめられた。漂流記『北槎聞略』の中で、光太夫特有の率直さで、異郷の文明の日常生活を詳細に描写している。例えば18世紀末のロシアのトイレの詳細とその冬の使用法を書き、ロシア上流階級を回想して「貴人は厠にさえ灶(くど=炉)ありて寒気を防ぐ」と感嘆している。

 

エリザベート・ヴィジェ=ルブラン

アストルフ・ド・キュスティーヌ、自画像 / ナショナル・ギャラリー (ロンドン)アストルフ・ド・キュスティーヌ、自画像 / ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

 18世紀末、女流画家ヴィジェ・ルブランは、フランス革命を逃れてロシアに渡り、ロシアの皇帝一家や貴族らの肖像画を数十枚描いたが、フランスに帰国してのち、見事な回想記を出版した。

 「ロシア人の間では暖気を保つ手段が発達しているので、冬が来たとき、もし全く外出しなければ、ペテルブルグで全く寒さに気づかずにいることができる。どこでも暖炉が非常にすぐれており、マントルピースでは、事実上、何も必要ない。これは装飾品にすぎない。」

 そのほか、エカテリーナ時代の貴人が自分たちの宮殿にしつらえている冬の庭園が彼女を驚かせた。「ロシア人には、冬、室内が春の温度に保たれているだけでは足りない。多くの部屋の隣りにはガラス張りの温室ギャラリーがあり、そこでは、わが国では5月にしか見られない見事な花々が咲き乱れている」

 「寒さに震えないために、冬の間はロシアへ行かなければ」。画家ヴィジェ=ルブランは、雪に被われたパリに戻ったあと、こんな言葉を残している。

 

アストルフ・ド・キュスティーヌ

アストルフ・ド・キュスティーヌ/ 「パブリックドメイン」(公有)アストルフ・ド・キュスティーヌ/ 「パブリックドメイン」(公有)

 フランスの作家・旅行家の彼は、1843年にパリで出版された著書『1839年のロシア』がベストセラーになって国際的に大きな反響を呼び、一躍有名になった。キュスティーヌはこの本でロシアの現実を、そしてロシア上流階級の生活様式を非常にきびしく批判的に論じており、ロシアでは本が発禁になったほどだ。

 キュスティーヌは「花崗岩も抵抗するすべがない」酷寒にも無関心でいられなかった。

 「夏と冬の寒暖差が60度にも達するロシアの住民は、南の国々の建築を断念しなければなるまい。しかしロシア人は、まるで女奴隷を手なずけるのと同じように、自然の扱いに慣れており、天候を意に介さない」とキュスティーヌは書いている。

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