ニコライ2世の永遠の愛

 子供たち全員は、一緒に皇居内で育てられた。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ、1908年。

 子供たち全員は、一緒に皇居内で育てられた。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ、1908年。

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 ロシア最後の皇帝がこよなく愛した人
 ロマノフ王朝最後のロシア皇帝であるニコライ2世は、1918年7月16日夜から17日の未明にかけて、ボリシェヴィキの手により妻アレクサンドラ、娘のマリア、オリガ、タチアナ、アナスタシア、そして息子のアレクセイと共にエカテリンブルクで処刑された。後に一家は「新致命者」として列聖された。 / 娘のオリガ (右) とタチアナ (左) に囲まれて撮影されたアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の最後の写真、トボリスク、シベリア、1918年。
 アレクサンドラ・フョードロヴナ (アリックス・フォン・ヘッセン・ウント・バイ・ライン) はドイツ帝国のダルムシュタットで1872年に生まれた。 アリックスの母親は、彼女が6歳の時に他界した。 多くの子どもの末っ子だった彼女は、祖母で、大英帝国の統治者であるヴィクトリア女王の家に引き取られた。 / 母親のヘッセン・ウント・バイ・ライン大公妃のアリスに抱かれるアリックス・フォン・ヘッセン、1873年。
 ニコライ2世は、1868年にロシア帝国サンクトペテルブルクのアレクサンドロフスキー宮殿で生まれた。 彼は、皇帝アレクサンドル3世の6人の子どもの長男だった。 / 子どもの頃、母親のマリア・フョードロヴナと一緒にいるニコライ2世、1870年。
 将来ロシア皇帝ニコライ2世の皇后となるアレクサンドラ・フョードロヴナ、3歳の頃。
 アレクサンドル3世が崩御したため、長男であるニコライが皇帝になることが確定した。 父の葬儀が終わった後の1894年、ニコライはアリックス・フォン・ヘッセン (後のアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后) と結婚した。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ・ロマノワ皇后、1894年。
 両親の反対にもかかわらず、ニコライと最愛のアリックスは、ニコライの弟であるセルゲイを通じて手紙を送り合った。 / ニコライ・アレクサンドロヴィチ皇太子と将来皇后になるアリックス・フォン・ヘッセン、1894年。
 将来夫婦となる2人が次に会ったのは、アレクサンドラ・フョードロヴナがサンクトペテルブルクにいる姉のもとで1ヶ月半を過ごした5年後のことだった。 ニコライの両親は二人の結婚に反対していた。 / ニコライ皇太子と将来皇后になるアリックス・フォン・ヘッセン。
 後にアレクサンドラ・フョードロヴナとなるヘッセン家出身のアリックスがロシアを初めて訪問したのは、姉のエラがニコライの叔父であるセルゲイ・アレクサンドロヴィチと結婚した際のことで、アリックスが12歳の時だった。 皇太子だったニコライは16歳で、彼はすぐに恋に落ちた。 / 娘たちとバッテンベルク侯爵に囲まれるヘッセン大公ルートヴィヒ4世。 アリックス・フォン・ヘッセンは左側に立っている。
 新婚夫婦は喪中に新婚旅行をした。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ・ロマノワ皇后の写真、1894年。
 ニコライ世とアレクサンドラ・フョードロヴナとの間には5人の子どもができた:オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアと息子のアレクセイ。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ、ニコライ2世、四女のオリガ・ニコラエヴナ、ヴィクトリア女王、プリンス・オブ・ウェールズ (皇太子)。
 マリア皇女とアナスタシア皇女 (座っている方) は最年少で最も仲の良い姉妹だった。 アナスタシアから奨励されたマリアは、当時人気になっていたテニスを始めた。 2人の娘たちはジョークに興じるのが好きで、あまりに夢中になったため宮殿の壁にかけられた絵画やその他の貴重な品に当たって落としたりした。 / 妻子に囲まれるニコライ2世、1904年。
 ニコライ2世の唯一の息子には、血液凝固の制御が困難な病気である血友病が遺伝した。そのため、少しのかすり傷でも深刻な結果につながる可能性があった。 / アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后と息子のアレクセイ、1913年。
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