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ハバロフと同郷、同年代
デジニョフは1605年に、ロシア北部のヴェリキイ・ウスチュグ(現ヴォログダ州)に生まれた。やはり探検家で商人のエロフェイ・ハバロフ(1603?~1671?)も同郷で、同世代である。
当時、彼らのように、毛皮などの富を求めてシベリアに赴くものは少なくなかった。
ちなみに、ヴェリキイ・ウスチュグは、1999年以来、前モスクワ市長などの発案でマロースじいさん(ロシア版サンタクロース)の故郷ということになり、その家と称するものなども建てられて、観光スポットになっている。
ハイリスク・ハイリターン
デジニョフの生涯は不明な点が多いが、初め、トボリスクとエニセイスクで働き、やがて1638年にヤクーツクに移る。
彼の仕事は、先住民からヤサク、すなわち毛皮などの現物税を取り立てることだった。つまり、先住民の住む土地を絶えず巡回して、彼らを脅したりすかしたりしながら、ロシア帝国への臣従の証であるヤサクを集めるのだ。危険極まりない仕事で、先住民に襲われることも度々あった。
数年かけて北極海へ
1642年、デジニョフは、インディギルカ川を下りつつ、毛皮を集める旅に出る。この大河は、現サハ共和国を南北に貫流して北極海に注ぐ。デジニョフは数年かかって、北極海に到達し、海岸沿いをさらに東へ、コリマ川河口に進んでいく。
当地でデジニョフは、商人フェドート・ポポフと出会う。彼によると、コリマ河口を航海して鯨のヒゲやセイウチの牙を手に入れた者がいるという。
そこで2人は、1647年に、北極海を陸沿いに東に向う航海に出る。しかし、厚い氷に行く手を阻まれて断念する。
文字通り世界の果てに到達
2人は翌1648年7月3日に、総勢100人ほどで7隻の船に分乗して、再挑戦の旅に出発する。しかし、3隻はたちまち嵐で遭難し、8月にさらに1隻が沈む。
9月末、デジニョフ一行は黒々と切り立った岬を見る。これがユーラシア大陸最東端の岬(現デジニョフ岬)だった。この急峻な岬の最高点は741メートルに達する。
出航から約10週間後、デジニョフらは、アナディリ川に到達する。この川はベーリング海に注いでいるので、ベーリング海峡を北から南に通過したことになる。このとき一行は総数12人に減っていた。
デジニョフは、アナディリ河口に砦を築き、さらに川をさかのぼって地図を作成した。
だが、この歴史的な探検の記録は、長く古文書館に埋もれ、再発見されたのは実に19世紀末のことだった。
デジニョフがチュクチ半島を回航して達したデジニョフ岬は、日付変更線の位置から、世界で一番早く新しい日を迎える地点だ。ここから対岸のプリンスオブウェールズ岬(アラスカ)までは82キロで、晴天の日には対岸が肉眼で見える。記録には残っていないものの、この探検家がアラスカに渡った可能性もすて切れない。
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