カルル・ファベルジェ 10の事実

ファベルジェ美術館、サンクトペテルブルク=

ファベルジェ美術館、サンクトペテルブルク=

ロイター通信
 5月30日は、ロシアの著名な宮廷宝石商カルル・ファベルジェの生誕170周年の記念日。ロシアNOWは、この伝説的な人物について、知っておくべきすべてのことを読者の皆様にお話しする。

1.世襲で宝石商になった。

 カルル・ファベルジェは世襲で職業を受け継いだ。彼が誕生する4年前の1842年に、父親グスタフ・ファベルジェはペテルブルクの都心に小さな宝石店と宝石工房を開いた。ファベルジェ家の遠い祖先はフランスのユグノー派だった。17世紀に迫害に遭ってドイツに移住し、その後、バルト海沿岸に、そして19世紀には、確実な注文主をもとめて、サンクトペテルブルクに移り住んだ。カルルは、1872年に家族経営の会社の社主になった。

 

2.自分では宝石製品を作らなかった。

 ファベルジェは普通「宝石商(宝石加工師)」と呼ばれているが、自分の手では何も製作しなかった。彼は有能なマネジャーであり、優れた宝石工芸家を見つけて彼らをまとめ、その仕事を確保するのに長けていた。そして注文主たちの好みをよく理解していた。もっとも、ファベルジェ社のいくつかの製品は、彼の素描に基づいて製作されたのだが。その他、彼は15年間にわたって、エルミタージュの展示品の研究と修復に力を注いだ。

カルル・ファベルジェ=wikipedia.orgカルル・ファベルジェ=wikipedia.org

 

3.最初は博物館の展示品の複製から。

 ファベルジェ社が有名になったのは1882年、モスクワで開催された全ロシア美術工芸展のあとだ。この工芸展でファベルジェは金賞を受賞した。そのとき特に注目されたのが、エルミタージュに所蔵されていた古代ギリシアの金製品の複製だった。皇后マリア・フョードロヴナは工芸展で古代ギリシア風カフスボタン一対を買い付け、間もなくファベルジェは、宮廷へ貴金属品を納入するようになった。

 

4.世界的な名声を得た。

 1897年、ストックホルムで開催された北方美術工芸展での大成功が彼を待ちうけていた。そして1900年のパリ万国博覧会で彼は、ルネ・ラリックやフレデリック・ブシュロンとともに審査員になり、レジオンドヌール勲章を授与された。

 

5.豪華な生活を飾る品々を製作した。

 ファベルジェ社の目録には、銀製食卓セット、シガレットケース、小箱、筆記用具、銀製や準宝石製のミニチュア人形、コンパクトや菓子入れのような装飾品などがあった。しかし彼に最高の栄誉をもたらしたのは、見事な金属細工を施した卵の形をした、皇帝一家の復活祭の贈物だった。

 

6.復活祭の卵(イースター・エッグ)で有名になった。

 最初のイースター・エッグが製作されたのは1885年、アレクサンドル3世が皇后への贈物として注文した品だった。白いほうろうで被われた卵の内部に金の「卵黄」があり、その中に金の鶏が隠されていた。その鶏の内側に、小さな王冠とルビーのペンダントがあった。

 皇后はこの贈物が非常に気に入り、その時から革命まで、ファベルジェは毎年、復活祭の注文を受けることになる。ニコライ2世には2個の卵を製作するようになった。1個は皇后のため、もう1個は皇太后のためだ。32年間に製作された皇帝のイースター・エッグは50個で(うち42個が残存している)、その他に、別の顧客のため、約20個のイースター・エッグが製作された。革命後に皇帝一家の宝石は売りに出され、3個のイースター・エッグが現在も英国女王エリザベス2世のコレクションにある。

 

7.顧客には歴代の皇帝や名士たち。

 カルル・ファベルジェは、マリンスキー劇場のプリマ・バレリーナであり、ニコライ2世の皇太子時代の女友達だったマチルダ・クシェシンスカヤのダイヤ装飾品のすべてを製作した。マチルダの回想によれば、安全を考えて、彼女はそれらの装飾を自分で持ち歩かず、いつもファベルジェ社の特別の金庫に保管していたという。地方公演に出る時は、電話で装飾品の秘密番号を伝え、ファベルジェ社が外国にそれを持ち出した。警備員がその宝石をホテルや劇場に届け、いつも近くで見張っていたという。

 

8.大量の製品が販売された。

 ファベルジェ社の品は、貴族らだけでなく一般市民も手に入れることができた。例えば復活祭に向けてファベルジェ社の店には、色とりどりのほうろうで飾られた卵型のミニチュア・イヤリングが現れた。同じようなイヤリングが、毎年、大公妃たちに贈るものとされていたので、次第に大公妃たちのもとに、今度はダイヤのネックレスが集まるようになった。

 

9.ロンドンに店が開かれた。

 20世紀初めにファベルジェ社の支店は、モスクワ、オデッサ、キエフ、ロンドンにあった。外国の支店がオープンしたとき、皇后マリア・フョードロヴナ(妹が英国国王エドワード7世の皇后)は「ファベルジェは私の暮らしを難しくした」と愚痴をこぼした。それまでは、どんな贈物をすれば国王の親族を驚かせるかわかっていたのに、というのである。

 

10.国外の亡命先で死去した。

 1917年にボリシェヴィキが皇帝ニコライ2世を退位させて権力の座についた時、ファベルジェは、英国大使館の急使の姿に変装して、鞄ひとつを持って国外に逃亡するのに成功した。ロンドン支店や外国のパートナー会社に宝石類があったため、外国でまともな生活を送ることができた。しかし革命の大変動から完全には立ち直れないまま、1920年に、治療生活を送っていたスイスのローザンヌで死去した。ファベルジェはカンヌ(フランス)のグラン・ジャス墓地に埋葬された。

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