バラライカ秘話

Lori / Legion-Media
 奇妙な三角形の胴、三弦しかない細い首…。この楽器はすべてが変てこだが、一番奇妙なのは、滑稽で軽薄な名前だろう。バ・ラ・ライ・カとは!この名に、バラライカの本質が悉く現れている。人々を陽気にさせる楽しい楽器の本質が。

 かつてこの楽器を最も上手く弾いていたのが、中世ロシアの、家業に煩わされず各地を放浪した芸人、スコモローフであったことを思えば、それも頷かれよう。ロシアの農民たちは、音楽どころではなかったから、バラライカ弾きは無駄な技と考えられ、白い目で見られていた。「バラライカは“ひく(弾く)”んじゃなくて、“ひんく(貧苦)”だ」と農村では言っていたものだ。

 とはいえ、そう言う農民たちも、バラライカを聴き、それに合わせて歌ったり踊ったりするのが好きだったのは当然だ。しかも、どんな売店でも二束三文で売っていたから、本来の用途以外の使い方をされることもあった。年代記の証するところによれば、屋敷勤めの召使たちが互いを追い回し、バラライカでぶん殴りあうことがあったとか。こういう状況は、19世紀半ばまで続いた。

 

バラライカを変えたワシーリー・アンドレーエフ

 「私が静寂を楽しんでいると、突然、聞いたことのない音が響いた。農民が家の前の階段に腰かけ、バラライカを弾いていたのだ!それまで売店で目にしたことはあったものの、演奏を聴いたことはなかったから、こんな不恰好な三弦の楽器がこれほど豊かな音色を奏でられようとは思ってもみなかった!」 

 この夕べから、ペテルブルクの商人で音楽家のワシーリー・アンドレーエフには一つの目標ができた。「不恰好な三弦の楽器」には、喧嘩の道具以上の価値があり、他のどんな楽器よりもロシア人の魂を表すことができる。そのことを皆に示すことだ。

 アンドレーエフは、この楽器を現代の実情にうまく合わせつつ、啓蒙活動を始めた。首を短くし、また彼の発案で、白樺と松ではなく、楓とトウヒで製作するようになった。そのほうが響きが良いのだ。

 音楽上の一大センセーションとなったのが、アンドレーエフが編成した大ロシア・オーケストラで、まずロシアを“征服”すると、世界各国で公演を行った。その成功の大きさは、イギリス、アメリカ、ドイツで、これをモデルとしたロシア民族楽器のオーケストラが編成されたほど。ロシアには、バラライカ作りの名手、名器も現れた。ロシアのストラディバリウス、グァルネリといったところだ。例えば、セミョーン・ナリーモフが手がけたものの音色は鶯にたとえられた。

 「君はその善良な心をもって、孤児の少女だったバラライカに温もりを与えた!」。1世紀前、ロシアの偉大な歌手、フョードル・シャリアピンは、アンドレーエフにこう書き送った。「君の愛情により、少女はロシアの美女に成長し、その美をもって世界を征服した」

 楽曲をバラライカ用に編曲し、舞曲以外の何かを奏でるといったことが行われるようになったのは20世紀初めのことだ。オペラ『金鶏』、『サドコ』などで知られる偉大な作曲家、ニコライ・リムスキー=コルサコフは、その傑作『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』にバラライカを用いた。

 

亡命、ラーラのテーマ

 “バラライカによる地球上の輪舞”が次なる段階に達したのは、ロシア革命後の亡命の波が始まった1920年代のこと。まさしくこの時代に、バラライカは、欧州のレストランやカフェでその音色をいっぱいに響かせ、それは南北アメリカにも達した。さらに1965年に、詩人ボリス・パステルナーク原作による伝説の映画『ドクトル・ジバゴ』の、バラライカのために書かれたラーラのテーマを世界が耳にしてからは、この三角の楽器の人気は沸騰した…。

 「デヴィッド・ギルモアと私は、こんなコンサートのやり方を考えたほどだ。ステージを壁で仕切って、一方で彼がギターを弾き、もう片方で私がバラライカを弾くのはどうかなって」。こう語るのは、バラライカ奏者のアレクセイ・アルヒポフスキー。彼は、音楽学校在学中から、パガニーニやサン=サーンスをこの楽器で演奏していた。

 ピンク・フロイドの元リーダーとの共同プロジェクトがまだ実現していない間に、アレクセイは世界中で公演を行い、トミー・エマニュエルと共演。五輪の文化プログラム、クレムリンでの大統領との会見でも演奏した。

 欧州のマスコミは、彼の演奏を聴いて、スティーヴ・ヴァイやジェフ・ベックを思い出していたが、アルヒポフスキーにはこれといった楽譜がないこともある。しばしば彼の演奏は、音楽的イメージ、一連の即興、哲学的思索、ユニークな奏法などが渾然一体となったものなのだ。バラライカは、ロシアのヴィルトゥオーゾに、創造のための無限の地平を与えている。