『モンストラーツィイ』では若い人々の集団、つまり、学生、ヒップスターなどクリエイティブな人々が前面で活躍した。=アンドレイ・シャプラン撮影
近年のロシアのエンターテインメントは、シベリアはノヴォシビルスクの学園都市アカデムゴロドクで生まれた。「トータル・ディクタント」、「モンストラーツィイ」、そして「陽気な頓知のクラブ(KVN)」の起こりはここだ。モスクワではアカデムゴロドク出身のクリエイティヴなプロデューサーや番組アンカーたちが働いている。
「わたしを火星に帰して!」
ちょうど10年前の2004年、ノヴォシビルスクで、2つの予兆的な出来事が同時に起こった。「トータル・ディクタント」と「モンストラーツィイ」である。「トータル・ディクタント」は、口述筆記を用いたフラッシュモブで、一年に一回、あらかじめ選ばれた有名な作家が口述を行うものである。「トータル・ディクタント」は、予想外にもロシア中で有名になり、ロシア語住民の存在する外国でも知られるようになった。
「モンストラーツィイ」は同じ2004年にノヴォシビルスクで始まった。「2004年の5月1日と11月7日、コミュニストたちと労働組合が大規模なデモンストレーション(ロシア語で「デモンストラーツィイ」)を行いました」。「モンストラーツィイ」の考案者のひとりであるアルチョーム・ロスクートフ氏は当時を振り返る。「我々は、彼らについての明確なイメージが固まったので、集まって構想を練り、我々固有のオルタナティヴなデモンストレーションを行うことに決めました」
「トータル・ディクタント」は、口述筆記を用いたフラッシュモブで、一年に一回、あらかじめ選ばれた有名な作家が口述を行うものである。=タス通信撮影
布やプラカードに、おなじみの政治的要求の標語のかわりに、奇怪な“スローガン”を書いたのだった。例えば、「ここは、そんなことをする場所じゃない」、「人間、注意!(「猛犬、注意!」のもじり」、「わたしを火星に帰して!」、「くさい!ゆでタマネギだ!」などなど。
『モンストラーツィイ』では若い人々の集団、つまり、学生、ヒップスターなどクリエイティブな人々が前面で活躍した。その活動は一から十まで、まるで秘密組織であるかのようだったが、しかしまったく悪気のない、無邪気なものだった。「『トータル・ディクタント』と『モンストラーツィイ』の開催の仕方は、どこでも同じようなものです」。「トータル・ディクタント」の誕生に立ち会ったエゴール・ザイキン氏は語る。「ノヴォシビルスクからさまざまな地方にこれらのデモンストレーションのやり方が伝わっていき、さらにそれぞれの場所でのオーガナイザーが自主的にそれを共通の原則に従う形で行動し始めたのです」
森の中のコミュニズム
ノヴォシビルスクの学園都市アカデムゴロドクは、ユニークな場所だ。そこにはシリコンバレーに似た「テクノパーク」が形成されており、世界レベルのIT企業が所在し、超精密製品の実験的製造が行われている。アカデムゴロドクは、ロシアの主要な学術センターのひとつであり、すでに55年もの歴史をもっている。
アカデムゴロドクは1957年にノヴォシビルスク近傍の森に建設され、建築面でも、未来都市として設計されたものであった。その建設に際しては森を伐採せず、森の一部としてあるかのように建物は建てられた。人は森を歩き、まるで偶然のようにこれらの建物を見つけることになった。この時代、世界のどこでもこのような建築はなかった。「エコ・リビング」が流行になったのは、はるか後のことだ。
アカデムゴロドク=タス通信撮影
ある時、ある場所で、アカデミー会員、博士、研究員や学生たちが一堂に会した。そこで文化的な生活が沸き立っていたことは、驚くべきことではない。この街の住民たちは、進歩的な視点と自由な意見を持っていることに特色があったのだから。国は、強固でイデオロギー的な検閲の圧力のもとにあった。しかしここの人々たち、つまり祖国の科学の精華である科学者たちには、その他の人たちに対してよりも高いレベルの自由が与えられていたのだった。
アカデムゴロドクでは、「積分すると」という名前のディスカッション・クラブが設けられた。そこでは流行の作家たちが招かれたり、あるいは60年代に有名であったシンガーソングライターのコンサートが開かれたり、そしてまた熱い議論が行われていた。メーデーのような官製の休日ですら、人々は不条理芸術のようなプラカードとともに練り歩いていたのだった。例えば、「ミールー・ミール(世界に平和を)」というソビエトではスタンダードなスローガンの代わりに、「マーユ・マーイ(5月に5月を)」といったパロディーが書かれたりした。つまり、その頃、すなわち60年代の、学者たちのメーデーは、すでに「モンストラーツィイ」の先駆けだったのである。
大学とスタンドアップ・コメディ
「アカデムゴロドクは、いつもフリーク、あるいはマニアたちにとっての保護区でした」。エゴール・ザイキン氏は語る。「ここでは誰も、そういった奇妙なアイデアを持つ変わった人々を追い立てることもなければ、嘲笑することもなく、自己表現の自由は尊重されていました」
実際、ノヴォシビルスク大学では社会生活は沸き立つように活発であった。各学部はそれぞれの学生クラブをそなえ、それらは「ディヴァノフ兄弟のオフィス」、「量子」、「ジョーク・クラブ」といった名をもち、「トータル・ディクタント」が生まれたのも、この「ジョーク・クラブ」からだった。これらのクラブでは学生たちの喜劇的な寸劇が行われていた。「あるとき、これらのクラブが合同して一つの組織『陽気な頓知のクラブ』となり、国の寸劇大会で3連覇を成し遂げたのです」とエゴール・ザイキン氏。
「陽気な頓知のクラブ」(KVN)は、スタンドアップ・コメディを基礎とする、最も有名な若者たちのゲームのひとつだ。一般的に、このゲームはいくつかの大学の学生たちのグループによって行われている。しかもそれはロシアだけでなく、ロシア語住民の存在するほとんどあらゆる所で、それぞれのKVNが行われている。
ノヴォシビルスクのKVNのスターたち、タチヤーナ・ラザレワ、アンドレイ・ボチャロフ、アレクサンドル・プシノーイらはモスクワへ移り、番組アンカーやプロデューサー、あるいは放送作家となってさまざまなテレビ局やスタジオで活躍している。アカデムゴロドクの自由な芸術家たちの、テレビ・エンターテインメントのスタッフへの転身によって、KVNはロシアのテレビにとっての「ボイラー」となった。もし突然テレビ産業からシベリア人たちがいなくなってしまったら、その時は、多くのテレビ局の番組表に巨大な穴ができてしまうことになるだろう。
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