レフ・トルストイ、アスターポヴォ駅=
モスゾフ/ロシア通信ノーベル賞作家のウラジーミル・ナボコフは昆虫学に関心を持ち、蝶を収集した。息子のドミトリーはナボコフが亡くなる前日、父親に別れを告げたとき、とつぜん父親の目が涙でいっぱいになったと回想する。「わたしは父にどうしたの?と尋ねました。すると父は何匹かの蝶がもう飛び立とうとしている・・・と言ったのです」
ロシア・シンボリズムを代表する詩人のアレクサンドル・ブロークは1921年の春、重い病に冒されていた。これは内戦時代の長年の飢え、神経系の疲労、そして革命をテーマにした長編詩「十二」がロシアのインテリたちに受け入れられなかったことによるものであった。作家のマクシム・ゴーリキー、アナトリー・ルナチャルスキー教育人民委員(教育大臣)、ブロークの友人たちは、治療のために国外に出たいというブロークの願いを叶えようと奔走したが、共産党政治局は出国を許可しなかった。ようやく外国渡航用パスポートが用意され、出国許可が出たまさにその日、ブロークはこの世を去った。
優れた短編小説で1920~1930年代に非常に人気があったソ連の作家ミハイル・ゾーシチェンコは政府から批判、糾弾され、貧困生活を強いられ、知り合いの文学者たちの裏切りに遭った。作家同盟から除名されたゾーシチェンコはダーチャ(郊外のサマーハウス)に住処を移し、そこでひっそりと晩年を過ごした。現在ゾーシチェンコはソビエトの日常の形而上学を理解しているとして「ロシアのカフカ」と呼ばれる。
ミハイル・サルトゥイコフ=シェドリンは仮借のないユーモアと風刺で知られる。伝説によれば、彼は自身に訪れた死に「ああ、バカのお前か?」という問いかけとともに挨拶したと言われる。
これはロシアポエジーの傑作とされる作品を残し、学校のロシア文学の選文読本にも必ずその詩が載っている詩人フョードル・チュッチェフの最期の言葉。チュッチェフの多くの言葉は金言となっている。代表的なものの一つが「ロシアは頭では理解できない。並みの尺度では測れない。ロシアならではの特質があるから。ロシアは信じることしかできない」というもの。
レフ・トルストイ伯爵は82歳のとき、自身の屋敷ヤースナヤ・ポリャーナでの何不自由ない存在と決別しようと決めた。家庭医を伴いひっそりと3等列車で家を出たトルストイは移動中に風邪を引き、肺炎を起こした。彼の秘書で後に浩瀚な評伝を書いたニコライ・グーセフによれば、「真実…私は多くのものを愛している、あの人たちみんなを」というのが、トルストイ最期の言葉であった。
階段のイメージは作家ニコライ・ゴーゴリの大きな謎の一つとなっている。子供のときにゴーゴリは祖母から人の魂が空に昇っていく階段の話を聞いた。このイメージはゴーゴリの作品の中に様々な形で描かれている。ゴーゴリの死に立ち会った者によれば、彼の最期の言葉は「階段を!早く階段を!」という叫びだったという。
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