ロシア人作家の最期の言葉

レフ・トルストイ、アスターポヴォ駅=

レフ・トルストイ、アスターポヴォ駅=

モスゾフ/ロシア通信
 レフ・トルストイは天才たちの最期の言葉を特に重要なものと捉えていた。これについてトルストイは日記に「死に際にある人間の言葉はとりわけ重要なものだ」と記している。    ちなみに多くの人々が最期の瞬間までユーモアを失わずにいる。例えばオスカー・ワイルドは趣味の悪い壁紙の部屋で死を目前にし、「わたしの壁紙とわたしはいま死を賭けた闘いをしているところだ。どちらか一方が逝かねばなるまい」という言葉を残した。  またドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは臨終の床で「神はわたしを許してくれるだろう。それが神の仕事だ」と言った。  ではロシアの作家たちは人生の最後のときにどのような言葉を口にしたのだろうか。ロシア・ビヨンドがまとめた。

1)「何匹かの蝶がもう飛び立った」

 ノーベル賞作家のウラジーミル・ナボコフは昆虫学に関心を持ち、蝶を収集した。息子のドミトリーはナボコフが亡くなる前日、父親に別れを告げたとき、とつぜん父親の目が涙でいっぱいになったと回想する。「わたしは父にどうしたの?と尋ねました。すると父は何匹かの蝶がもう飛び立とうとしている・・・と言ったのです」

 

2)「Ich sterbe!(ドイツ語でわたしは死ぬの意)もう長い間シャンパンを飲んでいないな」

 作家で医師のアントン・チェーホフはドイツのリゾート地バーデンワイラーで結核のため亡くなった。チェーホフに死期が近いとの診断を下した医者はドイツの古い伝統に従い、チェーホフにシャンパンを持ってきた。チェーホフの最期の言葉は自身を献身的に治療してくれた医者に向けられたものであった。

 

3)「バカなブタが自分の子ブタを食べたように、ロシアがわたしを食べてしまった」

 ロシア・シンボリズムを代表する詩人のアレクサンドル・ブロークは1921年の春、重い病に冒されていた。これは内戦時代の長年の飢え、神経系の疲労、そして革命をテーマにした長編詩「十二」がロシアのインテリたちに受け入れられなかったことによるものであった。作家のマクシム・ゴーリキー、アナトリー・ルナチャルスキー教育人民委員(教育大臣)、ブロークの友人たちは、治療のために国外に出たいというブロークの願いを叶えようと奔走したが、共産党政治局は出国を許可しなかった。ようやく外国渡航用パスポートが用意され、出国許可が出たまさにその日、ブロークはこの世を去った。

 

4)「やはり人は時宜よく死ぬべきだと思う。ああ、マヤコフスキーはなんて正しかったのだろう。わたしは死に後れた。人は死ぬべきときに死ななければならない」

 優れた短編小説で1920~1930年代に非常に人気があったソ連の作家ミハイル・ゾーシチェンコは政府から批判、糾弾され、貧困生活を強いられ、知り合いの文学者たちの裏切りに遭った。作家同盟から除名されたゾーシチェンコはダーチャ(郊外のサマーハウス)に住処を移し、そこでひっそりと晩年を過ごした。現在ゾーシチェンコはソビエトの日常の形而上学を理解しているとして「ロシアのカフカ」と呼ばれる。

 

5)「ああ、バカのお前か?」

 ミハイル・サルトゥイコフ=シェドリンは仮借のないユーモアと風刺で知られる。伝説によれば、彼は自身に訪れた死に「ああ、バカのお前か?」という問いかけとともに挨拶したと言われる。

 

6)「僕はいつも君を愛していた。心の中でさえ、裏切ったことなど一度もない」

 これは作家フョードル・ドストエフスキーが妻アンナに言った言葉である。結婚後、彼らが離れ離れでいたのは数日しかなかったと言われる。アンナはドストエフスキーの妻であったばかりでなく助手でもあった。手書きの原稿を書き写し、出版社や印刷所との調整を一手に引き受け、ルーレットゲームへの誘惑を断ち切るのを助けた。

 

7)「なんという苦しみだ。思いを伝える言葉を見つけることもできない」

 これはロシアポエジーの傑作とされる作品を残し、学校のロシア文学の選文読本にも必ずその詩が載っている詩人フョードル・チュッチェフの最期の言葉。チュッチェフの多くの言葉は金言となっている。代表的なものの一つが「ロシアは頭では理解できない。並みの尺度では測れない。ロシアならではの特質があるから。ロシアは信じることしかできない」というもの。

 

8)「わたしはこの馬鹿者を撃ったりしない!」

 詩人ミハイル・レールモントフとニコライ・マルトゥイノフとの決闘では、立会人が指示を出したあとどちらも引き金をひかなかった。そこで立会人は叫んだ。「撃て!そうでなければ決闘は中止する!」それに対しレールモントフは静かに答えた。「わたしはこの馬鹿者を撃ったりしない!」この言葉がマルトゥイノフを傷つけることとなり、彼は引き金を引いた。その直後マルトゥイノフは倒れた詩人に駆け寄り、「ミーシャ、許してくれ!」と懇願したが、そのときレールモントフはすでに息絶えていた。

 

9)「わたしは真実を愛する」

 レフ・トルストイ伯爵は82歳のとき、自身の屋敷ヤースナヤ・ポリャーナでの何不自由ない存在と決別しようと決めた。家庭医を伴いひっそりと3等列車で家を出たトルストイは移動中に風邪を引き、肺炎を起こした。彼の秘書で後に浩瀚な評伝を書いたニコライ・グーセフによれば、「真実…私は多くのものを愛している、あの人たちみんなを」というのが、トルストイ最期の言葉であった。

 

10)「階段を!」

 階段のイメージは作家ニコライ・ゴーゴリの大きな謎の一つとなっている。子供のときにゴーゴリは祖母から人の魂が空に昇っていく階段の話を聞いた。このイメージはゴーゴリの作品の中に様々な形で描かれている。ゴーゴリの死に立ち会った者によれば、彼の最期の言葉は「階段を!早く階段を!」という叫びだったという。

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