サンクトペテルブルクの中に含まれる9つの都市

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 サンクトペテルブルクは、いわゆる「連邦市」だが、その中にさらに9つの都市が含まれている点で唯一の存在だ。

 サンクトペテルブルクは、絶えずその境界を広げてきた。3世紀の間に、面積は12平方キロメートルから1,439平方キロメートルに拡大した。

 サンクトペテルブルクは、1703年にピョートル大帝(1世)が自ら礎石を据えて着工し、それ以来、サンクトペテルブルク県の主要都市だった。しかし後に、サンクトペテルブルク市に続き、県もまた名前を改めた。1914年にペトログラード、1924年にレニングラードになった。

 1931年にレニングラードは、周辺地域から「分離」され、「共和国直轄市」となった。そして、次第にかつての郊外も、この都市に加わり始める。

 現在、サンクトペテルブルクには21の集落と9都市が含まれている。

ゼレノゴルスク(サンクトペテルブルク中心部から北西54キロメートルに位置)

 ゼレノゴルスクに関する最初の言及は16世紀に遡る。当時は、スウェーデンの漁村テリオキだった。1721年にロシア帝国の一部となる。ロシアとスウェーデンが「大北方戦争」を終結させたニスタット条約を結んだ後のことだ。当時、この村の人口の大半はフィン人だった。

 ロシア革命後、1918~1940年には、テリオキはフィンランド領だったが、1939~1940年の「冬戦争」(ソビエト・フィンランド戦争)の結果、ソ連領になった。第二次世界大戦中に再びソ連に占領され、1944年に最終的にソ連領となる。

 1946年にテリオキは市に昇格し、1948年にゼレノゴルスクに改名された。                       

セストロレツク(サンクトペテルブルク中心部から北西39キロメートルに位置)

 セストロレツクの着工日は、1714年9月20日とされている。このとき、ピョートル大帝が初めてフィンランド湾岸のセストラ川の河口近くを訪れた。彼は後にここに住居を建てている。   

 1724年にセストロレツク兵器工場がここで稼働し始め、1891年には有名な小銃「モシン・ナガン」が製造開始。

 1925年6月16日、セストロレツクは市に昇格した。

 セストロレツクからゼレノゴルスクに至るフィンランド湾岸は、19世紀に人気のリゾート地になった。今でも、多くのサナトリウムがここで運営されている。

クロンシュタット(サンクトペテルブルク中心部から北西50キロメートルに位置)           

 1704年5月18日、コトリン島の近くでクロンシュロット要塞の成聖(聖別)式が執り行われた。要塞は、ピョートル大帝の勅令により建設されており、この日がクロンシュタットの基が置かれた日とされている。要塞都市クロンシュタットは、ピョートルが、1723年10月18日にコトリン島で着工させた。

 クロンシュタットの任務は、サンクトペテルブルクを海から守ることだった。その歴史を通じて、バルチック艦隊の基地であり続けている。                  

コルピノ(サンクトペテルブルク中心部から南東40キロメートルに位置)

 1722年、イジョラ川沿いの製材所に、工房の集落「コルピノ」が生まれた。間もなく、この元製材所で、鉄、銅、錨、ハンマーの工場が稼働し始めた。これらは、海軍省の必要に応じて機能したため、海軍省イジョラ工場と呼ばれるようになった。

 1803年に、すべての企業が機械製造工場に統合された。現在に至るまで、工場はちょうど 300年間稼働してきたことになる。

 コルピノは、1912年に市に昇格した。

クラースノエ・セロー(サンクトペテルブルク中心部から南西30キロメートルに位置)    

 この都市の歴史は、1716年にピョートル大帝の勅令で創設された製紙工場から始まる。工場は、2003年まで操業していた。

 18世紀半ば、クラースノエ・セローは軍事演習場となり、サンクトペテルブルク守備隊の近衛部隊がここに駐留していた。

 その1世紀後、クラースノエ・セローは、ロシア帝国の「夏の軍事首都」としての地位を確立する。そして、大規模な軍事演習施設が現れた。

 クラースノエ・セローは、1925年に市に昇格した。 

パヴロフスク(サンクトペテルブルク中心部から南方37キロメートルに位置)

 1777年12月12日、女帝エカチェリーナ2世(大帝)は、息子、つまり後の皇帝パーヴェル1世に、スラヴャンカ川のほとりにある2つの村を与えた(サンクトペテルブルク中心部から南方25キロメートルに位置)。この地区はパヴロフスコエ村と名付けられた。

 即位から1週間後の1796年11月12日、パーヴェルは村をパヴロフスク市と改名した。革命後の1918 年から1944年までは、革命家ヴェーラ・スルツカヤにちなんでスルツクと呼ばれていた。

プーシキン(サンクトペテルブルク中心部から南方30キロメートルに位置)

 17世紀、現在のプーシキン市の領域には、スウェーデンの屋敷と地所「サーリス・モイシオ(Saaris moisio)」があった。ロシア人はそれをサルスカヤ屋敷と呼んだ。

 大北方戦争でこの地区がロシア帝国に併合されると、「サルスコエ・セロー」と呼ばれるようになる。1710年7月5日、ピョートル大帝は、それを将来の妻エカチェリーナ・アレクセーエヴナに贈った。宮殿の建設が始まると、この「屋敷」は、「ツァールスコエ・セロー」(ツァーリの村)という、いと高き名が冠せられた。

 市に昇格したのは1808年のことだ。革命後の1918年にソビエト当局は、かつての宮殿に児童の「コロニー」(療養所や教育施設など)を設置し、市の名は、「デーツコエ・セロー」(子供の村)と改められた。

 そして、1938年2月10日、大詩人アレクサンドル・プーシキンの没後100周年を記念して、プーシキン市と改名された。

ペテルゴフ(サンクトペテルブルク中心部から南西40キロメートルに位置)

 17世紀まで、現在のペテルゴフの領域にはフィン人の村があった。1710年にピョートル大帝は、ここに壮麗な公園と噴水を備えた離宮を建設した。そして、そこに居住区が生まれた。

 1721年には、ペテルゴフに宝石研磨の工場が開設され、そこで、皇室用の宝飾品が制作された。1947年以降、工場は、時計工場に変った。

 ペテルゴフは、1762年に市に昇格している。1917年まで、ここは皇室の夏の離宮だった。第二次世界大戦中、ドイツ占領下で甚大な被害を被っている。

ロモノーソフ(サンクトペテルブルク中心部から南西52キロメートルに位置)

 1710年、ピョートル大帝は、フィンランド湾南岸の土地をアレクサンドル・メンシコフ公爵に与えた。彼はそこに、オラニエンバウムと呼ばれる邸宅を建てた。邸宅の東には村が成長し、徐々に宮殿を中心とした居住区へ変わっていった。

 1743年から1761年まで、オラニエンバウムの所有者は後の皇帝ピョートル3世だった。 1780年、オラニエンバウムは市に昇格。革命前は、皇室ロマノフ家、およびその縁戚となったメクレンブルク=シュトレーリッツ公が所有していた。

 1948年に、都市はロモノーソフと改名された。18世紀半ば、近くのウスチ・ルディツァ村に、「万能の学者」、ミハイル・ロモノーソフは、ガラス玉、ビーズ、モザイク用の着色ガラスを作る世界初の工場を設立している。

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