昔、このサンクトペテルブルクのミリオンナヤ通りにドイツ人の多くが住んでいた
Legion Mediaペテルブルクを散策していると、いろいろな年のネヴァ川の水位を示す古いドイツ語の看板をよく見かける。この街にドイツ人が暮らしていたことを示す痕跡は他にもある。現在のペテルブルク市民にとっては奇妙なことかもしれないが、かつて街にはかなりの数のドイツ人が暮らしていたのだ。
ドイツ人がロシアにやって来るようになったのは18世紀半ばのことだ。ドイツ生まれの女帝エカテリーナ2世が招いたことがきっかけだった。彼らはヴォルガ川沿岸やシベリア南部の無人の土地に住みついたが、現地では今でも当時の移民の末裔と出会うことができる。特に多くの人がやって来たのが、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクだ。中には世界で最もふさふさのネコを発見して(ネコから頼んだわけではないが)マヌルネコと名付けたペーター・パラスや、電気力学の礎を築いたハインリヒ・レンツ、航海士アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンなど、卓越した業績を残した人々もいた。長らくペテルブルクには、当時外交官だったオットー・フォン・ビスマルクやトロイア遺跡を見つけた学者のハインリヒ・シュリーマン、ウラルとシベリアについて外国人向けの書籍を出版した探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトも暮らしていた。1897年の国勢調査では、人口100万人のペテルブルクに5万人以上のドイツ人が記録されていた。彼らはロシア人に次いで多かった。国政や学問の分野で高い地位を占め、首都では非常に著名な人々だった。
1859〜62年、建物にオットー・フォン・ビスマルクが住んでいたと示すネームプレート
連邦公文書館ドイツ人がロシアを去り始めたのは20世紀初頭のことだ。2度の大戦と革命が原因だった。現在人口500万のペテルブルクに暮らすドイツ人の数は駐在員を含めて3000人以下だ。
ペテルブルクには同一職種(例えば陶工、鍛冶屋、船乗りなど)の、あるいは同一民族の人々が暮らす外国人地区があり、ギリシア人町やタタール人町、フランス人町などがあった。ドイツ人町は、ミリオンナヤ通り(1738年〜1783年にはネメツカヤ通り)をメインストリートとして、夏の庭園から冬宮殿まで、中心部の大部分を占めていた。住民は自分たちの伝統、言語、信仰を保ち続けた。
ミリオンナヤ通り
Legion Mediaドイツ人町の中心は、19世紀半ばに建立されたルーテル教会ペトリキルヒェ(聖ペテロ・パウロ大聖堂)だ。現在はテューリンゲン出身のミヒャエル・シュヴァルツコプフ牧師が長を務めている。「我々の教会は小さいが、自立しており、これが我々の誇りだ」とミヒャエルさんは言う。教区共同体と社会との連絡係を務めるゲルハルト・ロイターさんによると、現在の共同体は実際あまり大きくなく、教会に恒常的に通っているのは500人未満だ。ゲルハルトさんは希望者に教会内を案内し、カタコンベや鐘楼を見せている。ソ連時代はここにプールがあった。復元された内装はなかなか印象的だ。
ペトリキルヒェ(昔と現在の様子)
アンナ・ソロキナ, Public Domainペトリキルヒェはオルガン音楽の愛好家にも人気だ。教会音楽監督のセルゲイ・シラエフスキーさんが有名な演奏家を招いており、時には彼自身も演奏する(バラライカとヨーロッパの古い音楽の二重奏をすることもある)。「我々のオルガンは1970年代製の『ヴィリ・ペーター』で、スウェーデンにある同様のドイツ在外共同体から2017年に我々のもとにやって来た」とセルゲイさんは語る
ペトリキルヒェの中にあるオルガン
Foxy9760 (CC0 1.0)ペトリキルヒェのすぐ裏に、ペテルブルク最初の学校であるペトリシューレがある。卒業生には、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を作ったモデスト・ムソルグスキーや、ペテルゴフを設計した建築家ニコライ・ベヌア、ソビエト詩人ヨシフ・ブロツキーなどがいる。
ペトリシューレの卒業式
Alexander Galperin/Sputnikペトリシューレの他、アンネンキルヒェ(現在ここはフィンランド人教区になっており、アンネンシューレは物理数学リツェイになっている)やドイツ改革派教会(ソ連時代に構成主義様式の文化会館に改築された)、ワシリエフスキー島のカタリネンキルヒェにも附属の学校があった。ワシリエフスキー島では最も多くのドイツ建築の遺産を見ることができる。
アンネンシューレの建物
Alexander Demyanchuk/TASSドイツ改革派教会(上)、教会が改築された後の様子(下)
"Scherer, Nabgolz i Кº", N. Olshevsky/A.N. Odinikov Archive/ Russia in photo, Florstein / Free Art Licenseワシリエフスキー島には初めフランス人町があったが、この場所はペテルブルクに住むドイツ人の間でも極めて人気だった。この島の区画を形作っているのは、通りではなく「条」(ライン)だ。アムステルダムのような水路の整備が計画されたのだが、水路があまりに狭すぎて埋め立てなければならなかった。こうして「条」だけが残ったのだ。ちなみに、ロシアにはもう一つ、通りの代わりに「条」を持つ街がある。それがサラトフ州のマルクス市で、ここはかつてヴォルガ・ドイツ人共同体の首都だった。
第1条28番の建物には、1850年から1860年までドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマン暮らしていた。ホメロスが語ったトロイアを実際に発見したペテルブルクの名誉市民だ。第8条にはヤーコプ・ベッカーのピアノ工場もあった(ソ連崩壊後、生産はドイツで再開された)。
ワシリエフスキー島にはペテルブルク最古の医療施設も残っている。ドイツ人には医者が非常に多かったため、一時ドイツ人と医者はほとんど同義だったほどだ。ピョートル1世はワシリエフスキー島に博物館クンストカメラを作り、さまざまな医学的異常の標本を集めさせた。1797年、島に助産師学校が附属した助産科学研究所が開業した。現在はドイツ系ロシア人ドミトリー・オットに因んでオット記念助産科・産婦人科・生殖学研究所と呼ばれている。
アレクサンドル・ペーリの薬局兼博物館
Florstein (CC BY-SA 4.0)ここには医師アレクサンドル・ペーリの現役の薬局兼博物館もある。街で最初に開いた薬局だ。ペーリについては、薬局の塔にグリフォンを飼い、錬金術を行なっているという噂があった。その真偽は今も分からない。この薬局の謎を解き明かすのはあなたかもしれない。
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