1時間しかなかった。ウラジカフカスで泊まっていたホテルがたまたま手配してくれた旅行の準備をするのに1時間しか時間がなかった。その旅行は、北オセチアのカフカス山脈を英語も話せない全くの他人と一緒に行くというものであった。彼の年代物のヴォルガ車が到着した時、わたしはこの車がロシアで普通の悪路を走り切れるのか疑いを持った。大きく息を吸い込んで、この夏の期間中、わたしの中に沸き上がったすべての不安が、地元の人が持つ何げない自信めいたものを見るととたんに消え去ってしまったことを思いだした。そして、「大丈夫、なにも心配ない」と自分に言い聞かせた。そして微笑みながら車に乗り込んで、ガイドの横に座った。そして、ロシアの探検家や冒険家がこれまで口にした有名な言葉を発した: パイェーハリ!(さあ、出発だ!)
この旅でわたしは31州を訪れた。シベリア横断鉄道を全線走破し、ソチからデルベントまで南カフカスをくまなく回った。しかし、この旅で心から理解したいちばん大切なことは、ロシアという国がたいへん誤解されているということであった。ロシアという国ははとてつもなく否定的に受け止められ、不信感を持たれており、西側の人たちがあまねく持つこのような考えを克服出来ずにいる。しかし、わたしはそれと違った物語を知ってもらおうと考えた。
ロシアはわたしに恐怖を打ち負かす勇気を与えてくれ、わたしの人生を変えた。アメリカにいる頃は静かな生活を送っており、未知なことに恐れを抱いていた。2015年に最初の留学を終えた後、西側からの旅行者と同じようにモスクワとサンクトペテルブルクに安全な範囲で旅行をした。2020年には念願の大冒険旅行をしようと決心したのだが、結局その勇気はなかった。そして2021年の夏、モスクワに手荷物をひとつだけ持って細かな計画を立てずに片道旅行をした。
しかし、ニジニ・ノヴゴロドとカザンを冒険した後、わたしの心はこうささやいた、「どうして旅を続けないのか?どうしてどこまで行けるのか試してみないのか・・・?」
ロシアの相互扶助精神
シベリア横断鉄道の旅は、間違いなくわたしの人生を大いに変えた。アメリカにいたころは、知らない人には気をつけろと教えられて来たので、列車の個室で3人の他人と一緒になることにとても神経質であった。しかし、一緒になったのは愛らしいおばあちゃんと娘さんで、この経験で2等車が最高だと確信した。3等車について聞いてみたところ、彼女らは体を震わせて、そこは安全ではないと言った。このアドバイスによって、シベリア横断鉄道の旅行すべてを2等車で過ごした。しかし翌年の北カフカス地方の旅行では、3等車に乗ることになってしまった・・・。そして、そこは2等車よりもっと楽しいということを知ったのである!女性の車掌はアメリカ人がいることを大袈裟に喜び、わたしの名前を覚えて、他の乗客に紹介して回った。客室の前を通りかかった警官と朝のコーヒーを一緒に飲んだ時には、彼は微笑みながら、わたしの話を聞き入ってくれた。しかし、彼は安全のために貴重品は枕の下に置くようにアドバイスした。
クラスノヤルスク州ストルブィ国立公園で登山をしたとき、苦労して登っていると、一組の家族が少し前にいた。そこに1台のワゴン車が近づく音が後ろから聞こえた。わたしにはそれが神の助けに聞こえ、反射的に停めようと手を振った。そして驚くべきことに車は停まってくれた。彼らがドアを開けて乗るかと言ったとき、これがどんなに危険なのか考えたことは覚えている。しかし、ロシア社会を生きる中で培われた信頼感は新たな旅を経ることに強くなっていたので、わたしはその言葉に甘えることにした。そしてちょっと走った後、彼らは前を歩いていた家族にも同じように声をかけた。この家族もすぐにこの申し出を受け入れたので、わたしは自分が乗ると決めたときに感じた恐怖が柔いだのを感じた。そして数か月後にわたしはカルーガでこの出来事を思い出すことになる。ひとりの若い女性と5分間会話しただけで仲良くなり、彼女の車で郊外にある古い邸宅に一緒に行かないかと誘われたのだ。わたしは、このような相互扶助の精神が普通であることをすでに知っていたので躊躇いなく同意した。
ロシア人が持つこの精神は、他のどの場所においても見ることは出来ない。物事がたとえ悪い方向に行くにしてもだ。たとえば、モスクワで氷の上で滑って腕を骨折したとき、通りがかった若者が病院まで車で連れて行ってくれ、付き添ってくれた上、大丈夫かと家まで送ってくれた。カザンでは、あるレストランの外で地元の画家と知り合い、その画家はわたしの話を丁寧に聞いてくれた上、自分の作品を2枚もプレゼントしてくれたのだ。お金を払おうとしても受け取らずに。
思い出すのは、イルクーツクに到着して公共交通機関を使ってホテルに移動したときのことである。そこでは年配の女性の一群が、わたしが外国人だと知ると、わたしの保護者となることを買って出てくれ、バス停を降りてからも安心なところまで付き添ってくれようとし、何を言っても聞き入れてもらえなかった。トムスクに着いたときには、ホテルの従業員からわたしがアメリカ人であることを聞いたある男性がわたしの部屋のドアをノックし、彼の家族と夕食を一緒に取らないかと誘ってきた。そして夕焼けの道路をスクーターで疾走するという冒険までした。ハバロフスクの美術館では、そこの職員たちと心に残る会話をした。わたしがロシアに対してとても心を開いていることに感動して、彼らは出会いの記念にとピンクのペンダントをプレゼントしてくれた。マハチカラでは、誰もがこれでもかというほどに歓迎してくれることに圧倒された。市内観光を手配してくれようとしたタクシーの運転手から、到着時にお茶、チョコレートやチーズを用意してくれたホテル、ビールを一緒に飲もうと路上で声を掛けてくる多くの男性まで・・・、少しの休む間もなかった。
これらの経験や他の体験から学んだことは、一般にロシア人は他者の面倒を見たり、守ってあげようとする人々だということである。それがたとえ政治的に芳しい関係でないと思われる外国人が相手であってもである。時折どうしても公的機関に行かなくてはならないとき、わたしの言ってることが分からないと言われていらいらするような場面でも、ロシア人はいつもとても穏やかで受け入れようとする社会である。皆が協力しあいながら暮らし、一緒に生きてきた経験が共生社会を作り出し、その中で信頼関係を創り出すことができるようになったのだろうが、これはアメリカや他のどの場所でも見たことがない。ロシアではみんな一緒なのである。西側で描かれるロシアは、ここでわたしが国籍を持ちだしたときにいつも言われるような「外交辞令」と同じだ。このような表面的なことを超えた真実を知りたいと思う者なら誰でもロシアはいつも温かく迎えてくれる。
ロシアで最高の町はどこか?それはモスクワではない
このような得難い経験以上のものをロシアで体験し、わたしはまるで1年の間に100回もの人生を過ごしたかのようで、「心地よさ」の意味を大きく広げることが出来た。そして、よく聞かれるのは、訪れた町の中でとこが一番良かったかということだが、それに答えることは難しい。ほとんどの期間をモスクワで過ごしたため、この町がとても好きだし、最初に学んだサンクトペテルブルクも気に入っている。しかし、これらの町の事は誰もが知っているし、他の場所もいいところがたくさんある。とりわけ、次の3つの町を挙げたい。それはクラスノヤルスク、ハバロフスク、ウラジカフカスである。これらの町に行ったこともないモスクワっ子は顔をしかめて、ただの「田舎」と言うかもしれないが、実際に私はこれらの町の平和さとおもてなしの精神はロシアの2大都市で得られるものと比較しようもないと思う。
クラスノヤルスクはわたしが町から山脈を望むことが出来る初めて訪れた町で、そこでは息が出来ない程であった。巨大なエニセイ川の美しい景観と平和大通りの建築物とともに、クラスノヤルスクは私の心を奪った。
極東で静かな町を探したときには、ウラジオストクの輝きよりもハバロフスクの魅力により揺さぶられた。通りに立って、それが落ちて行き、再び高みに上がるのがまるでジェットコースターのようで、それは、見たこともない景色であった。ハバロフスクには、また、砂浜のある美しい河岸があり、町のつくり自体がとても開放的で、それでいて、とても簡素に出来ている。
この国の反対側には、あらゆる面でわたしを驚かせてくれた町がある。それがウラジカフカスである。(アパラチア山脈、ウラル山脈、サヤン山脈と並んで)わたしが見た光景でもっとも心打たれた場所であるカフカス山脈以外で、である。それぞれの通りが小さな町のようで、ロシアの他の場所では感じることが出来ない雰囲気があり、また路面電車が走る歩行者用の通りは、これまで見た中でもっとも美しい「アルバート通り」であった。
ロシアの都会で大の字になって手足を伸ばすのも魅力的だが、ロシアは自然にも恵まれている。わたしの人生で忘れられない最高に穏やかな瞬間は、シベリア横断鉄道の旅を終えてカレリア地方の湖畔でキャンプをしたときである。ペトロザヴォーツク中心部から遠く離れた郊外の湖岸まで夕焼けの中の花畑を歩いたことを思い出す。わたしはひとりだったので、虫の鳴き声や、砂浜に寄せる波、船着き場でゆったりと揺れるカヌーの音を聞くことができた。キジ島に行って、木造の正教教会のドームを見ることが出来たその日は、わたしの中のすべてが問題なく静かであった。
人生で最良の年について思いを馳せるうちに、わたしは次の冒険に乗り出した。ロシアの本質である、美、信頼、共同生活を大切にしようとするわたしの知り合いたちの精神を持ち続けようと思う。カザンでは夕焼けの中で出会った若き写真家に、わたしが風任せに予定を立てずに旅を続けてきたことを詳しく話した。彼女に自分のロシアへの愛を語ると、彼女は喜びのあまり涙を流してくれた。わたしの言葉すべてがとても誇らしいと言って。わたしたちは連絡先は交換しなかったが、シベリア横断鉄道の終着駅ウラジオストクに近づくと、彼女が感情的になったのを覚えている。政治、歴史、誤解という陰の中にあっても・・・素晴らしい幸せな物語というものは必ず存在するのである。