ロシア北部を訪れたカストロ:スキーの腕前はもう一つだったが…

歴史
ヴィクトリア・リャビコワ
 1963年、米ソ冷戦のピークだったキューバ危機の直後に、フィデル・カストロは、ソ連を40日間にわたり旅した。カストロが乗ったアエロフロートの通常の飛行機は、4月27日、オレネゴルスク近郊に着陸した。ロシア旅行は、雪玉を投げ、スキーを試み、北方艦隊を訪問することから始まった。

 「あのろくでなしめ!」。1962年にフィデル・カストロは、ソ連の指導者、ニキータ・フルシチョフについて、こう吐き捨てたと伝えられる。

 キューバ危機の際にフルシチョフは結局、キューバに侵攻しないと米国が約束したのと引き換えに、同国にソ連が配備した中距離弾道ミサイルを撤去することに決めたが、その知らせにカストロはこう反応したのだった。少なくとも、ムルマンスク州公文書館のウェブサイトでは、そう伝えられている

 カストロは、自分の頭越しにフルシチョフがアメリカへの譲歩を決めたのが気に食わず、キューバ全国にこんなスローガンが広められた。「ニキータ、ニキータ、何か贈ったなら、勝手に取り返すなよ」

 しかしフルシチョフは、カストロと喧嘩するつもりはなく、1963年1月にこのキューバ指導者に手紙を送った。その中でフルシチョフは、ミサイル撤去はもっぱら「国際社会の安全のためである」として、この決定を正当化するとともに、カストロをソ連に招いた。

 カストロをロシアに運ぶために、ロシアの極北の都市の一つ、ムルマンスクを経由してハバナにTu-114D機(今も現役の戦略爆撃機「Tu-95」を旅客機に改造したもの)を送ることが決定された。ところがカストロはなぜか、この提案された機体ではなく、アエロフロートの通常の機種で来ることを望んだ。

 ソ連の駐キューバ大使、アレクサンドル・アレクセーエフは後に語った。「我々のTu-114機は、故障したという触れ込みで、ハバナ空港の端っこのほうにとまった。そして夜、20人の護衛を引き連れたカストロは、通常のタラップを上らず(何しろお忍びだから!)、薄っぺらな梯子で貨物室のハッチに上がり、そこからキャビンに入った。そこでカストロがやおら旅の目的について話すと――何と、ムルマンスク経由でソ連に行くというではないか!――、てんやわんやの騒ぎが始まった。それは、必要な荷物を持った者がほとんどいなかったことで、いやがうえにも強まった。

 ムルマンスク州公文書館のサイトによると、飛行時間は大変長かった。その間、カストロは、チェスをしたり、おしゃべりしたり、読書したり、防寒帽を試着したりした。また、ブラジルで開催された野球のパンアメリカン競技大会での米国VSキューバの試合の結果を調べてくれと頼んだ。通信士アレクサンドル・アニキンがモスクワに尋ねたところ、キューバが勝ったという。カストロは「そう思っていたよ…」と答えた。

 この間、ムルマンスクでは、カストロ到着に向けて準備が本格化していた。当局は、彼の来訪を秘密にしようとしたが、口コミは止められなかった。

 「この時期、街の塀が塗装されたことはなかったのに、何十人もの職人がせっせと化粧直しにいそしんでいた。まだ雪だまりがあちこちに残っていたが、雪の塊の端まで塗っていた。5月の祭日はずいぶん先なのに、旗がいたるところに掲げられていた。ムルマンスクの消防士の楽隊は密かにキューバ国歌の練習をしていた」。ソ連の秘密警察「KGB」の職員だった歴史学者ニコライ・レオーノフは当時を振り返る。

ロシア人たちと会い、漁港を訪れる

 1963年4月27日、飛行機は、午前3時頃にオレネゴルスク近郊のオレニア空軍基地に着陸した。

 「拍手喝采が轟き、楽隊の音がかき消されるほどだった。突風で、ソビエト連邦とキューバ共和国の旗がより合わさった。そして、長身で精力的な、髭をたくわえた男がタラップに現れた。その勇姿は世界中に知られている」。プラウダ紙の記者は現地から伝えた。

 カストロは、毛皮帽とカーキ色のジャケットを着て、飛行機を降り、キューバとソ連の国家に耳を傾け、車に乗り込んだ。車は、キューバ代表団を、ムルマンスク行きの特別列車まで運んだ。

 ムルマンスクにカストロが着いたのは午前10時近くだった。その時、駅前広場や近隣の通りは何万人もの地元住民で埋め尽くされ、学童たちは授業から、労働者は工場から飛び出した――キューバの指導者を見るために。

 「屋上に座ったり、柱にぶら下がったりした人もいた。誰もがキューバ人たちを熱烈な歓呼で迎えた。涙ぐんだ人もいた。誰もがキューバとその指導者に「乾杯!」を叫び、「キューバ万歳!」と絶叫した」

 ペトロザヴォーツク市に住むアリョーナ・アラタロは、カストロ到着を目撃した父親からの手紙を引用している。その手紙によると、カストロは、「疲れてはいたが幸せそうな眼差をしており、非常に控えめで、皆、彼のことを気に入った」

 「ここの気温は低くて、我々は慣れていない。しかし、あなた方の心は熱い。その熱さは、我々に、そしてあなた方の国にやってきたすべてのキューバ人に感じとれる」。カストロは挨拶でこう述べた。

 この最初の出会いの後、カストロは、フルシチョフの地元の別荘に向かった。これが、カストロの旅行中の住居になる。カストロは雪を見て喜んだ。空中に放り投げ、自分に振りかけ、味を試し、雪だまりの中を歩いて、ほとんど腰まで沈んだ。スキーも試みたが、絶えず転んだ。

 その後、カストロは、砕氷船レーニン号、ムルマンスク漁港、魚加工工場を訪れた。工場では、オオカミウオのバーベキューやオヒョウを試食し、スズキの冷やした燻製を味わった。彼がいちばん気に入ったのは魚のペリメニ(餃子)だ。出発に際し、彼はやっと手にもてるほど大きいオヒョウをもらった。

 「カストロが魚加工工場から出てくると、人々はそこでも待ち構えていた。波止場には、たくさんの樽があり、人々はその上に座り、あるいは立っていた。若い女性たちがいっしょに写真を撮ってほしいと頼み始めた。カストロはすぐさま樽によじ登り、みんながその記念写真に収まった」。アリョーナ・アラタロの父親は記している。

北方艦隊にて

 4月28日朝、カストロは、ソ連の北方艦隊を見学にやってきて、駆逐艦に乗り込んだ。彼が凍えないようにと、白い毛皮のついた黒い上着(当時、海軍軍人が着ていたもの)と、耳当てのついた、将校用の防寒帽(ウシャンカ)が手渡された。彼は、一日中それを着て過ごした。 

 カストロが船から下りると、彼に敬意を表して、21発の礼砲が巡洋艦から発射。彼はその様子をじっと見ていた。それから彼は、弾道ミサイルを搭載した潜水艦を見せられた。彼は、ハッチを開けてミサイルの一つを発射位置まで上げるように頼んだ。

 「同志の皆さん、このテクノロジーの奇跡に拍手を送ろう。ソ連の科学者と設計者の業績だ。このミサイルは、我々の国と国民の平和と安寧を守ってくれる」。カストロはミサイルについてこう述べた。

 上記のニコライ・レオーノフの意見では、カストロが北方艦隊を訪れたのは、もっぱらこのためだった。

 「カストロにとって主たる課題は、ソ連が米国の核の脅威に対し適切な手段を持っているか否かを自分の目で確かめることだった」。レオーノフは指摘する。

 それからカストロは、軍用飛行場セヴェロモルスク1に連れて行かれたが、そこに滞在したのは短時間で、見学した後すぐに、Il-18(旅客機イリューシン18)でモスクワに飛んだ。キューバへの帰途は、再びコラ半島を経由した。

 カストロがムルマンスクに2日間滞在してから60年以上経つが、地元住民にとっては、キューバ指導者の来訪は今でも良い思い出だ。例えば、公文書館のサイトには、住民(女性)の次のようなコメントが載っている。

 「子供の頃の、最も古くて強烈な思い出の一つは、カストロに関係している。カストロがロモノーソフ通りを通過するのをうっかり見逃して、大泣きしたことだ。キューバとソ連の旗を手にした人がたくさんいた…。カストロは長い間、やってこなかった。私は注意散漫になり、芝生で女の子と遊び始めた。おかげで私はすっかり見逃してしまった。でも、母は私にこう言い聞かせて、安心させた。誰もカストロを見ていないよ、彼がセヴェロモルスクの人たちに挨拶したときに車の外にのばした手を見ただけだよ、って…。『キューバ、わが愛!』」