20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を使おうと思い立ち、1903年から1916年にかけて全国各地に数多くの旅をした。
プロクディン=ゴルスキーは、写真について、教育と啓蒙の一形態という考えをもっており、それは、中世建築の写真でとくにはっきりと示された。
1909年6月~7月、プロクディン=ゴルスキーは、マリインスキー運河沿いの写真を撮る委託を運輸省から受けた。選ばれたルートは、北西ロシアで最も古い考古学的遺物のいくつかを結んでいた。それはまた、サンクトペテルブルクにまつわるエピソードにも関係していた(この都市は、1703年に基を築かれ、1712年に首都となっている)。
ピョートル大帝は、新しい首都をロシア内陸部とつなぐ課題に直面し、最終的にはマリインスキー運河建設を決めた。これは、サンクトペテルブルクとヴォルガ川流域を結ぶ。
プロクディン=ゴルスキーが旅したマリインスキー運河沿いの主なポイントは、ベロゼルスクだった。モスクワの約500㎞北に位置する古都だ。1777年まではベロオゼロと呼ばれ、北西ロシア最古の街の一つである。リューリク朝の祖(リューリク、シネウス、トルヴォルの三兄弟)が与えられた5つの都市の一つとして、「原初年代記」の862年の項で言及されている。三兄弟は、当時ルーシと呼ばれていた東スラヴを治めるために招かれたという。
水路との結びつき
ベロゼルスクがどんな起源をもち、草創期にはどこに位置していたか。これについてはいろいろ詳しく語られているが、いずれにせよ、その名前そのものが、街が常に「ベロエ湖(白い湖 Beloe Ozero)」と結びついていたことを示している。
ベロエ湖は、ラドガ湖とオネガ湖よりは小さいものの、この2つの湖とロシア中心部を結ぶ重要なポイントだ。湖は、その南東端でシェクスナ川に流れ込む。これは、ヴォルガ川の支流で、現代では、モスクワ・サンクトペテルブルク間のクルーズ旅行の航路に含まれる。夏季にはそうしたクルーズが多数行われる。
ベロオゼロ――ベロゼルスクはもともとそう呼ばれていた――は、やはりベロエ湖畔にあったのだが、位置が違った。現在地に移ったのは14世紀後半だが、その前にもう一度、別の場所に移転していた。
モスクワ公国の勢力が15世紀に強まると、ベロゼルスクは、公国北西部の最前線およびその水上輸送の要衝として戦略的重要性をもつようになる。イワン3世(大帝)は、この街の意義を理解し、1487年には、大規模な要塞(クレムリン)を建設した。その土塁は今も残っている。街は16世紀半ばに、とくに鉄製品や漁業で大いに繁栄した。
往時の豊かさをしのばせるのが、生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)で、これは要塞の形をなし、街のいちばん高い地点に1553年に建立されている。
またベロゼルスクは、イワン雷帝(4世)の治世の後半(1547~84年)における混乱をも目の当たりにした。街は雷帝の直轄領(オプリーチニナ)に組み込まれ、流刑場所として役立った。
しかし、雷帝の直轄領の制度も、16世紀後半にロシアの多くの地域で飢饉や疫病が発生するのを防ぐことはできなかった。
17世紀初めになると、1605年のツァーリ、ボリス・ゴドゥノフの死、跡目争い、内訌が立て続けに起き、これに外国軍の干渉が加わって、ついに「大動乱」(スムータ)となる。この間、そして1612年には、大規模な略奪で街は荒れ果てる。
しかし、大動乱の終息後の17世紀、交易が復活すると、この街の地の利と天然資源が再び物を言うようになる。アレクセイ・ミハイロヴィチ帝の治世の1670年代に、「主の変容大聖堂」がクレムリン内に建てられた。
そして、1703年にサンクトペテルブルクの建設が始まると、この街は重要な位置を占めることになる。すなわち、ヴォルガ川流域とオネガ湖、ラドガ湖をつなぎ、ネヴァ川を通って帝都にいたる要衝となった。
歴史のなかに消えた驚異の建築
ベロゼルスクにおけるプロクディン=ゴルスキーの広範囲にわたる写真撮影には、クレムリンや中心部の大聖堂だけでなく、この街で最もユニークな建築群の一つ、生神女庇護聖堂(ポクロフ聖堂)と木造の聖イリヤ聖堂も含まれていた。彼は、南西方向からそれらをまとめて撮影している(生神女庇護聖堂が前面に見える)。
生神女庇護聖堂は、1740~52年に建立され、5つの丸屋根をもつ優雅な姿をしていた。その細部は、地方のバロック様式のシンプルなもので、西端には美しい鐘楼が付いていた。
ところが、数年にわたって撮った私の写真が示すように、今では塔はまったく残っておらず、教会は、破壊、損壊の末、修理不能なところまで崩壊している。
その点、全国レベルのランドマークである木造の聖イリヤ聖堂のほうは、保存により大きな希望がもてる。
プロクディン=ゴルスキーのクローズ・ビューは、コンタクトプリントでしか見られない。私の1990年代後半の写真もそうだが、非常に貴重な記録だ。
聖イリヤ聖堂は、1690年代の建立。一階部分は立方体をしており、建物全体は三層構造で、大きな木製の丸屋根を戴いている。これは、クレムリンの南西の隅からよく見える。主な構造物は、松の丸太に切り込みを入れて組み合わせてあるが、祭壇のある東側の後陣(半円形に張り出した部分)は、より丈夫な「あり接ぎ」で組んである。西側には、入り口のホールと屋根付きポーチが張り出している。
主要なホールは広々としており、丸太は平らに削られているので、塗装することも可能だろう。東の壁には、大きな5段のイコノスタス(聖障)がしつらえらえていた。これはホール上部の左右に広がっていた。
イコンは17世紀末に描かれたものだが、ソ連時代、保存のためにベロゼルスク博物館に移された。しかしその後、ほとんどのイコンが、より良い条件で保存するために、近くにあるキリロフ市のキリロ・ベロゼルスキー修道院の博物館に移されている。
主要ホールの上部には、天井(ネーボ)がある。これは、上斜めに向かって傾斜するかたちで台形パネルが張られ、塗装されたものだ。真上の中央には、正方形のパネルがあり、キリストが描かれている。
私は幸いにして、1999年にインテリアのこの傑作を撮影することができた――キリストの磔刑が描かれた主なパネルも含めて。
しかし、何十年にもわたってこの聖堂は閉鎖されてきており、この驚嘆すべき記念碑とも言うべきインテリアは、十分な維持、修理がなされてこなかった。
1970年代になって、壁面の修復のため、19世紀につくられた厚い壁板が取り外され、建物は基本的に博物館として使われるようになった。
だが、やはり維持管理が不十分であったため、聖堂はさらに荒廃し、地下水が浸水する恐れも出てきた。
2012年になってようやく、ベロゼルスク建都1150周年を記念して、徹底的な修復計画が提案された。建物は、2010年に修復のために解体。その後、競合プロジェクトと優先事項を照らし合わせて修復計画が策定された。
この稀有な中世の聖堂の保存は最優先事項でなければならない。ベロゼルスクは、その歴史の大半の時期において、木造の街であった。木造建築の中には、今となっては想像するしかない教会群も含まれる。聖イリヤ聖堂こそは、そのなかで生き残った稀有な建築であり、鮮やかに往時を思い出させてくれる。
20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。
プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。
1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。