ペテルブルクの歴史的ホテル3つ

写真提供:グランド・ホテル・ヨーロッパ
 エルトン・ジョンがライヴを開いたホテル、そしてハーバート・ジョージ・ウェルズ、イサドラ・ダンカンが滞在したホテルを紹介しよう。

 サンクトペテルブルクには創業100年を超えるホテルがいくつかあるが、かつての名前がそのまま残っているのはグランド・ホテル・ヨーロッパ、ホテル・アングレテール、ホテル・アストリアの3軒だけである。そしてこれらのホテルには有名人らの興味深いストーリーが残されている。

 

1.グランド・ホテル・ヨーロッパのサー・エルトン・ジョン

 「近代的な設計による巨大なホテル。これはビジネスであり、アメリカニズムであり、何百もの部屋を持つホテルであり、巨大な産業施設である」。ロシアの作家フョードル・ドストエフスキーは、ランチの場所としてお気に入りだったグランド・ホテル・ヨーロッパについてこのように記している。

写真提供:グランド・ホテル・ヨーロッパ写真提供:グランド・ホテル・ヨーロッパ 1875年にオープンしたグランド・ホテル・ヨーロッパは豪華なホテルであっただけでなく、当時の首都において革新的なものであった。ホテルのレストランには皇帝の宮殿より先に電気の照明が導入されていたのである。

 ソ連時代、グランド・ホテル・ヨーロッパのレストランはレニングラードで活動する放浪者タイプの芸術家たちの集う場であった。もっとも有名な作家や音楽家、そして有名人の子どもたちがここで食事をし、酒を飲んだ。そんなホテルで1979年、常連たちは予期せぬまま、あらゆる意味において“騒がしい”ライヴの観客となる。レストランのステージで、イギリスの有名なミュージシャン、レイ・クーパーがパーカッション演奏をし、ピアノの椅子にはエルトン・ジョンが座ったのである。

写真提供:グランド・ホテル・ヨーロッパ写真提供:グランド・ホテル・ヨーロッパ

 冷戦真っ只中のソ連にヨーロッパから初めてやってきたポップス界のスター、エルトン・ジョンはモスクワとレニングラードで合計8回のコンサートを開いたが、「死んだような聴衆」に不満に感じたという。音楽ショーに慣れていなかったソ連の観客たちは座席に座ったまま、ヒット曲の演奏にも控えめな拍手をしただけだったからだ。

 ホールでのコンサートが終わった夜、エルトン・ジョンはグランド・ホテル・ヨーロッパのレストランへ招かれた。そこには他の国々からやってきた観光客がおり、エルトン・ジョンはようやく「見慣れた」観客に出会えることとなった。そこで彼は誰も予想しない行動に出た。いきなり小さなステージに上がったのである。レストランの客たちは喜びを隠すこともなく、ほとんどの人がテーブルから離れ、ステージに駆け寄った。このときの即興ライヴの録音はドキュメンタリー映画「To Russia with Elton」(エルトンと共にロシアへ)に収められている。

 知っておきたいお得情報:グランド・ホテル・ヨーロッパのレストランでは毎週金曜日の19時に室内オーケストラがチャイコフスキーの音楽を演奏する。チャイコフスキーは1877年、ハネムーンをこのホテルで過ごした。

 

2.ホテル・アングレテールのイサドラ・ダンカンと「ロシアのフーリガン」

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 モダンダンスの祖であるイサドラ・ダンカンは44歳のとき、当時人気の絶頂にあった26歳のロシアの詩人セルゲイ・エセーニンと共にホテル・アングレテールに宿泊した。当時エセーニンの詩の朗読には何百人もの人々が集まったが、それらのイベントはスキャンダルやケンカに終わることが多かった。エセーニンはその気狂いじみた性格から「無鉄砲なフーリガン」という異名を持っていた。

 1922年、イサドラ・ダンカンはマリインスキー劇場のメインステージで公演を行った。ダンカンはロシア革命にインスピレーションを受け、自らのダンススクールを開校するためモスクワを訪れたのだが、そこでエセーニンと出会うことになる。アングレテールを訪れる少し前のことであった。ダンカンのダンスに感嘆したエセーニンは公演後メイク室に飛び込んでいったものの、ロシア語以外の言葉が話せなかった彼は言葉でうまくその感動を伝えることができず、ダンカンの前に駆け寄り、彼女の膝を抱きしめたという。

イサドラ・ダンカン(中央)、セルゲイ・エセーニン、1922年 =Edward Steichen撮影イサドラ・ダンカン(中央)、セルゲイ・エセーニン、1922年 =Edward Steichen撮影

 ペトログラード公演の後まもなく、スター同士のカップル、エセーニンとダンカンは結婚した。2人はヨーロッパツアーを敢行した後、ダンカンの祖国アメリカに向かったが、そこで絶望的なケンカをし、エセーニンはロシアに戻った。その2年後、ダンカンは愛するエセーニンがホテル・アングレテールの一室で亡くなったという電報を受け取った。その部屋はかつて2人が泊まった5号室であった。

 知っておきたいお得情報:ホテルにはアングレテール・シネマ・ラウンジがある。ヨーロッパのアートシアターものや最近のドキュメンタリー映画がロシア語の字幕付きで原語で上映されている。

 

3.ホテル・アストリアのサイエンス・フィクション

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 ホテル・アストリアには1934年、SF作家のハーバート・ウェルズが宿泊した。「宇宙戦争」の著者であるハーバート・ウェルズの3度目のロシア訪問は議論を呼んだ。「国際ペンクラブ」の会長だったウェルズはソ連の作家たちをこの団体に入れることについてソ連側と合意するためにロシアを訪れたのだった。しかしスターリンと個人的に面会できたにも関わらず、ウェルズは自らの目的を達成することはできなかった。

 当時ロシアの学術的中心地だったペトログラードで、ウェルズはイサーク広場の見えるホテル・アストリアの広い部屋で数学者のヤコフ・ペレリマン、SF作家のアレクサンドル・ベリャエフ、グリゴーリー・ミシケヴィチからなるソ連科学の啓蒙家代表団と面会した。ベリャエフとミシケヴィチはロシア語に訳されたウェルズの本が入った3つの重い包みを持ってきた。そのとき、ソ連で出版されたウェルズの作品の発行数は200万部を超えていた。この数は作家の故郷イギリスでの発行部数を上回るものだった。

ハーバート・ウェルズ=ロシア通信ハーバート・ウェルズ=ロシア通信

 知っておきたいお得情報:ホテル・アストリア1階にあるカフェ「ロトンダ」では毎日15時から18時までヴァレーニエ(ジャム)を添えたロシア風パンケーキとお茶のサービスがある。ランチ後のお茶タイムの伝統は20世紀初頭にホテルの最初の支配人が始めたものだ。それ以降、ロビーにはいつもきれいに磨かれた青銅のサモワール(湯沸かし器)が用意されている。

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