ソロヴェツキー諸島の正教復活

 ペレストロイカによってロシア正教会への対応が変わり、聖職者の迫害がなくなり、失われた伝統が徐々に取り戻された。1988年に教区、1991年に修道院が復活した。

ソロヴェツキー諸島(略称はソロフキ)の最初の文明の痕跡は、紀元前2000~1000年までさかのぼる。この時代、諸島ではフィノウグリック語族のサミが暮らしていた。古代の人は、ここを長や英雄が埋葬後に向かう来世との境い目だと信じていた。

12~13世紀、スラヴ人が白海の海域にあらわれた。14世紀末、克肖者サヴァティイとゲルマンが絶海のソロヴェツキー諸島に到達し、定住するようになった。半世紀後、サヴァティイの弟子ゾシマが修道院を開基する。
中世ルーシでは、修道士が主要な地主であった。修道士は政治的には、地元の公からほぼ独立していた。そのため、教会がしばしば、新たな土地の経済的開発の原動力になっていた。
修道士の移住は急速に進み、1460年までには木造教会3ヶ所、イズバ(ログハウス)、食堂を建設した。16世紀、修道士は漁業と製塩業を始め、湖の間に運河を掘った。
木造教会は石造りに変わり、本土との水上連絡が築かれた。イワン雷帝時代の修道院長フィリップの努力により、修道院は本土でも土地を所有するようになり、白海の最大の地主になっていく。
17世紀に修道院の威力が増したことで、国との対立が生じてしまう。ソロヴェツキー諸島の修道士は、アレクセイ・ミハイロヴィチ帝に信頼されていたモスクワ総主教ニコンの宗教改革に反対し、8年間、皇帝軍に対して防衛を続けた。

1676年1月にようやく、モスクワはソロヴェツキー諸島を制圧する。反抗的な修道士は殺害され、修道院には他の修道士団が派遣された。新しくなった修道院は、それでも、最大の宗教の中心地となり続け、ロシア北部の広大な領域を管理、運営した。
この修道院に人々はさまざまな理由で来ている。聖職者団体の出身者であれば、修道士としてとどまることができた。元囚人の老人が、剃髪式を受けることなく、修道院に暮らしたこともあった。社会保障制度のない時代、修道院はこの機能も果たしていた。
1917年にボリシェヴィキが政権に就き、国内最古の修道院の一つが解散させられた。何世紀にもわたって聖地となってきた諸島は、ソ連のグラグ(矯正労働・奉仕労働収容所)体制の中で最も恐ろしい矯正収容所に変わった。セキルナヤ山の教会は、不気味な懲罰独房になった。
1940年代から、教会の建物を軍が管理するようになった。ここで自由な移住が始まったのは、スターリンが死去して10年強が経過した1960年代終わりで、諸島には博物館・自然公園の地位が与えられた。
1980年代半ばに始まったペレストロイカによって、教会への対応も変わり、聖職者の迫害がなくなり、失われた伝統が徐々に取り戻されるようになった。1988年に教区、1991年に修道院が再びあらわれた。

1992年8月、ソロヴェツキーの奇蹟者の不朽体が戻され、1993年、ソ連時代に搬出されていた芸術品がに戻された。今日のソロヴェツキー諸島についてドキュメンタリー動画もお見逃しなく。

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