海を照らす6つの灯

港湾都市の灯台は、いくつかの機能を果たしている。船の運航を助ける航海案内灯であると同時に、市の名所にもなっている。太平洋に面したロシアの主要都市ウラジオストクも例外ではない。

1. トカレフスキイ灯台 

 ウラジオストクに住む人に灯台へ行く道を尋ねたら、すぐに「エゲリシェリド」(シュコット半島にある、ウラジオストク南西地区の名称)にあるトカレフスキイ灯台への道を教えてくれるだろう。市内に灯台はいくつかあるが、単に「灯台」と言えば、この灯台のことだ。トカレフスキイ灯台は、ウラジオストクがあるムラビヨフ・アムールスキイ半島の先端。ここは地の果てを思わせ、そのせいでも観光客に人気がある。

 灯台は長くのびた砂州のはずれにあり(この砂州は満潮時には水中に消える)、この砂州が、19世紀末に水雷長(船舶の機雷兵器を担当する専門家)として活躍したトカレフスキイ海軍中佐にちなんで「トカレフスカヤ・コーシカ(トカレフスキイ砂州)」と名づけられた。ここからはルースキイ島がよく見え、中国、韓国、日本への海路も見渡せる。

 トカレフスキイ灯台は、いくつかの映画の舞台にもなり(最近では、ロシアのニコライ・ホメリキ監督の映画『暗闇の物語』など)、冬にはここで、氷上で身体を休めたり、キュウリウオを獲っているワモンアザラシの姿が見られる。

 

2. バサルギン灯台 

 ウラジーミル・バサルギン提督の名前からバサルギン灯台と名づけられた、ウラジオストクのもう一つの灯台に行きつくのは、そう容易ではない。灯台がパトロクロス湾地区のロシア国防省管轄地域にあるからだ。最初の灯台の木造建築物がここに現れたのは1937年、現在の姿である8メートルの石塔の灯台が建設されたのは1958年だ。ここには最近、航海の安全性の改善に役立つグロナス・システム(世界衛星航行システム)が設置されたが、伝統的な塔の灯も、以前の姿のまま移譲された。バサルギン灯台は、この地に住む画家や写真家たちがこよなく愛する「風景」で、カレンダーや絵葉書にもよく使われる。青い海、カモメやウミウが巣くう灰色の断崖、そして赤と白の灯台。貸しモーターボートに乗って海から眺めるバサルギン灯台の風景は最高だ。

 

3. スクルィプリョフ灯台 

 ウラジオストクのすぐ近くのスクルィプリョフ島に建設された灯台が、バサルギン灯台と一対になって稼働している。第二次世界大戦時には、この小さな島に、女性たちが受け持つ高射砲台(一説には対舟艇砲台)があった。男たちは前線に行き、不在だったためだ。兵舎跡は今も残っているが、現在、スクルィプリョフ島には軍人はおらず、あるのは灯台だけ。これは沿海地方で最古の灯台で、建設されたのは1876年だが、今も昔のままに稼働している。隣のバサルギン灯台とともに、この灯台はスクルィプリョフ島で、ウラジオストクの「海上門」になっている。スクィプリョフ灯台の光は赤色、バサルギン灯台の光は緑色だ。船がスクルィプリョフ島に接近するとき、船長はここでウラジオストク港への入港許可を求め、外国船にはここでパイロットが乗船する。

 

4. ブリュース灯台 

 ウラジオストク近郊のもう一つの灯台は、スラビャンカ集落の近くにある。それがスラビャンカ灯台で、風光明媚なスラビャンカ岬に建っている。切り立った高い崖、灰色の玄武岩、太陽に輝く海の岬だ。

 岬も灯台も、皇帝ピョートル一世の側近で、クリミア遠征に加わったロシア最初のフリーメーソン、ヤコフ・ブリュースにちなんで命名されたとされている。詩人アレクサンドル・プーシキンも、長編詩『ポルタワ』でブリュースに触れている。

 

 しかし、また別の説もある。この半島の最初の記録は、1855年、英国の軍艦ウィンチェスター号とバラクーダ号の乗組員によるもの。当時、ウラジオストクは、まだ創建されておらず、現在ウラジオストク市がある土地も、英国人によって「ポート・メイ」と命名された。「ブリュース岬」と「ブリュース島」の名前が英国の地図に現れたのが当時で、その名の由来は、クリミア戦争時に英国太平洋大艦隊を指揮した英国のブリュース提督だった。数年後にここへやってきたロシア人は、英国人の名前を残し、それに独自の解釈を与えたというもの。

 ブリュース灯台は1911年に再建された。平屋の建物に連結された高さ10メートルの白い石塔という最初の外見は、今日まで残されている。その隣に古い海鐘があり、霧で灯台の光が見えないときには、海鐘で船舶に合図を送った。気象条件が複雑になった現在では、合図の信号は現代機器で送られる。

 

5. アスコリド島の灯台 

 ウラジオストクの東方のアスコリド島に、最も興味深く、行くのがきわめて困難な灯台の一つがある。この島については多くの伝説がある。

 1868年に、まさしくここでマンツィ戦争が始まった(沿海地方に住んでいた中国人をマンツィと呼んだ)。当時、アスコリド島で勝手に金を採掘していた中国の探金家らが、スクーナー・アレウト号の船員数名を死傷させ、ロシア政権との紛争に入った。その後、中国匪賊の紅胡子によって、シュコット集落とニコリスコエ集落(現在のウスリースク)が焼き払われた。匪賊によるウラジストク襲撃が予想され、紛争を終わらせられるには、ロシア軍の介入しかなかった。ソ連時代に、ここには対空防衛町が建設されたが、この町は、その後、住む人がいなくなり、無人の家や水道、病院、学校などが残された。

 古老たちの話によれば、20世紀90年代に、ここで新たな「銅戦争」が始まった。無職のまま取り残された沿海地方の住民が、部隊や対空防衛町から残された金属屑を持ち去った。現在、アスコリド島に残っているのは、(ここの海に棲むナマコや、森にいる鹿を目当てに他所からやってくる密漁者、密猟者を別にすれば)岸辺の険しい断崖にある灯台と、灯台守だけだ。暖をとるのは薪ストーブ、電気はディーゼル発電機。島との交通手段はなく、時おり燃料や食料を運んでくる、軍のランチがあるばかり。現在の灯台が建設されたのはソ連時代だが、すぐ近くに、20世紀初頭に現れた古い灯台の建物も残されている。この灯台は、切り立った崖の上にあり、そこまで行くのは、事実上、不可能で、そこへ続く階段は、その一部が壊れている。

 

6. 屋根の上の灯台 

 ウラジオストクの海の性質を何よりもよく物語る、もっとも風変わりな灯台が、バス停「マラジョージナヤ(青年)」地区にある。灯台は、普通の5階建て「フルシチョフ時代建築」の屋根にあり、海からも、ウラジオストク100周年大通りからもよく見える。正確に言えば、これは「光る航海信号」に過ぎないが、普通、この「名所」は灯台と呼ばれている。

 太平洋艦隊の管轄下にあるこの施設は、すでにこの場所がウラジオストク郊外とみなされていた時代から、ここにあった。1960年に、当時ソ連のリーダーだったニキータ・フルシチョフ氏がここを訪れたあと、「大ウラジオストク」プロジェクト工事が始まり、ウラジオストク市は急速に北へと成長し始めた。航海設備付近の建設は法律で禁止されていたが、ウラジストク100周年大通りという新しい街路を直線道路にするため、艦隊上層部は例外を決め、光る信号設備の一つを新しい住居の屋根に移設するのを許可した。そしてすでに半世紀、この小さな灯台は正常に作動し、船舶のウラジオストク・リヒテル港での係留に役立っている。

*写真提供:ワシーリイ・アフチェンコ