タタールスタンの非公式のモットーは次のようなものだ。“Bez Buldırabı!” - その意味は「やればできる」だ。タータルスタンはロシアで最も発展した共和国の一つで、その多民族、多言語、多宗教のアイデンティティは、結束したチャレンジ精神いっぱいの人々というイメージを強めてきた。同共和国へのほとんどの訪問者はカザンに向かうが、戦争と混乱の時代にロシア各地からやって来た、そして最も象徴的なソ連のブランドのいくつかがいまだに生産されている多数のより小さな都市が、この国の各地に散在している。
ブグリマ
ブグリマはタタールスタン共和国の南部に位置するオレンブルク州の境界をまたいでいる。2000年のユーロビジョンポップコンテストで2位に輝いたポップシンガーのアルスーは1983年にこの町で生まれた。一方で、風刺小説『兵士シュヴェイクの冒険』で有名なチェコの作家ヤロスラフ・ハシェクは、この町の珍しい訪問者の一人だった。彼は1918年のロシア内戦中に衛生兵としてここで3ヶ月を過ごし、彼の記念博物館も建てられている。
ブグリマにしばらく滞在したもう一人の人物は、『鶴は翔んでゆく』(1957年)と『モスクワは涙を信じない』(1979年)の主役を演じたことで有名な俳優、アレクセイ・バタロフだ。彼はかつて演出家スタニスラフスキーの弟子だった母親のニーナ・オルシェフスカヤと共に戦争中にここに疎開に来ており、地元の劇場で芸を磨いた。この劇場は、2008年に彼を記念して命名された。ここへは小旅行で訪問することができる。
ボルガル
ヴォルガ川に沿ってカザンの南に位置し、ボルガルの町の近くにある居住地は、7世紀から15世紀の間断続的にヴォルガ・ブルガールの首都だった。2014年にユネスコの世界遺産に登録されたばかりのこの小さな古代の町は修復されており、ヴォルガ・ブルガール人がイスラム教を受容していたことを象徴する古いモスクで有名だ。今日、これはタタールスタンのイスラム教徒にとって人気の巡礼の地となっている。
チストポリ
第二次世界大戦中、チストポリは、ソ連作家同盟のメンバーにとって安全な避難所となった。ボリス・パステルナーク、アンナ・アフマートヴァ、レオニード・レオーノフといった作家たちが何年間もここに住んで働いた。パステルナークの博物館も建てられた。
この町はまた、1941年に設立されたボストークの時計工場が所在する場所としても有名である(その製品例は、こちらで閲覧可能)。ここは、時計製造の全工程が扱われている数少ない工場の一つだ。
この都市には、ロシアで最古のものに数えられる木造のモスクもある。ソ連で最も著名な反体制派活動家の一人だったアナトリー・マルチェンコは、3ヶ月に及ぶハンガーストライキの後、48歳でチストポリの刑務所付属病院で死去した。彼の死は、1987年に多人数の政治犯を釈放するようミハイル·ゴルバチョフを説得するきっかけとなった。彼はノヴォエ・ルスコエ墓地に埋葬されている。
ナーベレジヌイェ・チェルヌイ
この都市のアイデンティティは、ダカールラリーで12回優勝した記録を持つ自動車を開発した KAMAZ トラック工場の歴史に包まれている。市の歴史博物館には、トラックを専用とする特別展示がある。
国際的に有名な汎神教メタルバンドの「アルコノスト」はこの都市の出身で、頻繁に地元でコンサートを開催している。ナーベレジヌイェ・チェルヌイはまた、ヴォルガ・ブルガールの時代まで遡るサバントゥイ、バシキール、タタールおよびイデル=ウラルの夏祭りの主要な開催場所でもある(通常6月下旬に祝う)。このほかの見所としては、ロシア人吟遊詩人のウラジーミル・ヴィソツキーに捧げられた巨大なオリジナルの像とイルカの水族館がある。
ニジネカムスク
ニジネカムスクはタタールスタン共和国で三番目に大きい都市で、このリストの中では常識的な訪問先の候補として最も考えつきにくい場所だ。ここはロシア最大の石油化学センターの一つだが、ロシアで最高レベルのリーグでプレーする KHL ホッケーチーム、HC ネフテヒミクの拠点となっている。この都市はまた、モスクワ市および州以外で6番目にマクドナルドの店舗ができたことを誇りにしている。
エラブガ
エラブガはタタールスタンの都市中でも景観が美しいとされている。この地は、1800年代後半の「peredvizhniki」(移動派)と関連づけられている有名な風景画家イヴァン・シーシキンの出身地だ。彼を記念した美術館がある。
女流詩人マリーナ・ツベターエワは、20世紀ロシア文学を担った偉大な人物の一人に数えられているが、1941年に首つり自殺を図り、市営墓地に埋葬されている。彼女は、戦争から逃れるためにここに疎開していた。彼女にも記念の博物館が建てられている。
このほか、祖国戦争中にロシア史上初の女性将校となるために男装をしたナデジダ・ドゥーロワは、1831~1866年の間にエラブガに住んでいた。彼女は映画(エルダー・リャザーノフ監督の『軽騎兵のバラード』)、戯曲やオペラの題材になっている。彼女の回顧録、『騎兵隊の娘』は英訳されているが、ロシア語で出版された最初の自伝の一つであった。ドゥーロワにも、やはり記念の博物館が建てられている。
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