聖ウスペンスキー修道院 =ロシア通信/マキシム・ボゴドヴィド撮影
イワン雷帝の軍が1551年5月、木の要塞を組み立てるための部品を運んだボルガ川は島のどこからでも見ることができる。この要塞はロシアがカザン・ハン国に勝利するのに貢献した。
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カザン・ハン国とモスクワ・ツァーリ国は16世紀半ば、ボルガ川中流域の支配をめぐって戦った。カザン・ハン国の首都カザンは当時、難攻不落の要塞だったため、イワン雷帝率いるロシア軍の攻撃はいつも失敗に終わっていた。また、モスクワから離れていたので長時間包囲するのも難しかった。
イワン雷帝の軍は1550年秋、いつものように退却しようとカザンから徒歩1日ほどの距離にあるスビヤガ川が流入するボルガ川流域で野営した。
イワン雷帝はこの場所に、要塞都市を建設することを考えついた。木の要塞の組み立ては1カ月で完成し、スビヤシュスクはカザン包囲の軍事基地になった。
カザン・ハン国を侵略した後、要塞はイスラム教の地におけるキリスト教の砦(とりで)となった。1万人ほどの住人がいた町には今200人強しかいない。
スビヤガ川の岸 写真提供:mityaguimon/flickr.com
スビヤシュスクは1918年、再び歴史の中心になった。レーニンはロシア革命を起こし、ボルガ川に達した白軍をカザンから追い出そうと、トロツキーを派遣したのである。
歴史の最も暗い1ページはスターリンが指導者になった時代に刻まれた。1924年、ここに矯正労働収容所が建設され、続いて聖ウスペンスキー修道院の壁の中に矯正労働収容所・奉仕労働収容所総局の支部も設置された。支部は
35年から53年まで活動していた。この修道院はその後、神経精神病院隔離所になった。
1957年にクイブィシェフ貯水池が建設されると、スビヤシュスクの一部は水没し、戦略的な高さに建設された要塞の部分だけが島となって残った。
2008年には島へ通じる道とダムが建設されたため、車でも行けるようになった。島の修道院には現在、25人の修道士と修練士がいる。
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