イスラムの都カザン

カザンの街、ビタリー・ラスカロフ撮影

カザンの街、ビタリー・ラスカロフ撮影

タタールスタン共和国の首都カザンで今年7月に行われるユニバーシアード夏季大会の開幕まであと2カ月となった。ロシア正教の信者が多いロシア連邦の中にあってイスラム教の拠点であるタタールスタン共和国はその「へそ」に位置する。国際スポーツイベント開催で活気を見せる穏健なイスラム共和国にも外の世界の影響をうけた変化は表れている。ユニバーシアード大会参加者たちを待ち受けるタタールスタン共和国と首都カザンを紹介する。

 聖職者テロで揺れる

  ロシアのタタール人自分ちの宗教的な寛容を誇りにしてきた

 欧州連合EU)に生まれようとしているユーロイスラムこの地に常に存在してきた。革命までタタール識字率はロシア平均上回っていた。

 20世紀世界イスラム過激主義者が増加したが、ソ連の「鉄のカーテン」に遮られたタタルスタンは例外だった

インフォグラフィック:

クルシャリフ・モスク

 イスラム教への関心が高まり始めた1980代末の頃から。連崩壊後、地元の社会・政治組織はスラム的なファクターを族的自覚の一部分そしてタタルスタン立を目指す戦いに欠かせない属性とみなしてきた。

 しかし、スラム教の聖職者の長イリドゥス・ファイゾフに対する暗殺未遂やその代理ウラ・ヤクポフの殺害、の結果としての同共和国史上初の反テロ作戦というの出来事は和国揺るがした。

 ロシア政治学アカデミー会員のウラジーミル・ベリャフ氏は990代にワッハーブ主義国家的イデオロギーなっているウジアラビアなどで学んだ者たちがった後でが増えるが作り出された話している。

クール・シャリフモスクの内部、Lori/Legion Media

 クルシャリフ・モスクの内部、Lori/Legion Media

 タタールスタン共和国

 第タタルスタン・イスラム教徒臨時大会は17日、28歳のカミル・サミグリン氏を和国の新しい大ムフティー(イスラム教の宗教指導者)に選出した。 

 サミグリン任者と同様身を過激主義の反対者と称している。ザンでの記者会見では、イスラム教徒の宗務局は「寛容なイスラム教」を宣伝する運動を活発化してイスラム教徒の結束に努める、と述べた。

 インタァクス通信は、この若きムフティーの言葉を次のように引用している。

 「私たちタタール人をカフカスの住人たちと一緒にしてはなりません。私たちはどんなに深刻な問題もお茶を飲みながら解決することができ、それ以外のコミュニケーションは考えられません。タール語とロシア語とアラブ語で授業が行われるオンライン・マドラサ(学院)や著名な神学者の本が閲覧できるオンライン図書館予定です」。

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カザンの週末

 

 2005、カザンは1000を祝った。現在、ここは、ロシア有数経済、政治、学術、教育、観光、文化、そして、スポーツの中心の一つとなっている

 カザンのクレムリンは、ユネスコの世界遺産に登録されており、町そのものはロシア第三の都」というブランドをそなている。

 ユネスコののもとで界初の世界文化研究所が創設され、今年季ユニシアードに続いて2015には水泳世界選手権、2018にはサッカーのワールドカップが開催される。

 独立非営利法人27回夏季ユニシアード執行管理部総責任者ウラジーミル・レオーノフ氏はポーツトのおかげで、大衆ポーツのインフラが強化されました。ルスタンは済的に大きな魅力をそなており、クノパークや特別経済ゾーンがあります。地理的にもたいへん有利な場所にあり、生産施設や物流拠点もたくさんありますと胸を張る。

 

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 穏健な共和国で寛容さが薄れつつある

 ファリド・ハズラト・サルマン氏

 イスラム融和協会・神学者会議議長

 

 「タタルスタンにおける平和鍵は族的な精神構造あります。タール人はかのイスラム民族とは異なり、極めて容で、かなり欧州化されているからです。

 私たちは教徒にもユダヤ教徒にも常に好的でした。だが現在、若者のは寛容は次第に薄れつつあります。統的なスラム教のサイト一つに対し、非伝統的な宗教形態の信奉者であるワッハーブ派やサラフィー派のサイトは20を上回っているのです。

 タタルスタンはカフカスとは異なり、宗教的要因の紛争がほとんど起こらない地域す。それでも、共和国内部にり、社会には不安が感じられます。

 私はルスタンにおけるテロ作戦の後に、イスラム教を支持する国家機構が伝活動すると思ってまし、それはりませんでした
連崩壊まで私たちはみな同じ一つの共和国で暮らしていました。

  ところが今はジキスタン、ウズベキスタン、キルギカザフスタン激主義の信奉者稼ぎ労働者たちがやってくるす。
の移住の結果、ロシアのイスラム教徒の民族宗派的な構成は変化しいます。

 昔から、教は一にタタール語で行われるべきである、とされてきました。しかしくの地域でタール語の説教は姿を消しました。教はシア語行すべきする激な神学者たくさん現れました。

 これは同体内部の対立、民族的ではなくメンタルで神学的な性格の問題をはらでいます。」

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