カザンの街、ビタリー・ラスカロフ撮影
聖職者テロで揺れる
ロシアのタタール人は、自分たちの宗教的な寛容を誇りにしてきた。
欧州連合(EU)に生まれようとしている「ユーロイスラム」はこの地に常に存在してきた。革命までタタール人の識字率はロシア平均を上回っていた。
20世紀は世界中でイスラム過激主義者が増加したが、ソ連の「鉄のカーテン」に遮られたタタールスタンは例外だった。
イスラム教への関心が高まり始めたのは1980年代末の頃から。ソ連崩壊後、地元の社会・政治組織はイスラム的なファクターを民族的自覚の一部分、そしてタタールスタン独立を目指す戦いに欠かせない属性とみなしてきた。
しかし、イスラム教の聖職者の長イリドゥス・ファイゾフに対する暗殺未遂やその代理バリウラ・ヤクポフの殺害、その結果としての同共和国史上初の反テロ作戦という昨年の出来事は共和国を揺るがした。
ロシア政治学アカデミー会員のウラジーミル・ベリャエフ氏は「1990年代にワッハーブ主義が国家的イデオロギーとなっているサウジアラビアなどで学んだ若者たちが戻った後でテロが増える環境が作り出された」と話している。
クルシャリフ・モスクの内部、Lori/Legion Media
タタールスタン共和国
第6回タタールスタン・イスラム教徒臨時大会は4月17日、28歳のカミル・サミグリン氏を共和国の新しい大ムフティー(イスラム教の宗教指導者)に選出した。
サミグリン氏は前任者と同様に自身を過激主義の反対者と称している。カザンでの記者会見で同氏は、イスラム教徒の宗務局は「寛容なイスラム教」を宣伝する運動を活発化してイスラム教徒の結束に努める、と述べた。
インタファクス通信は、この若きムフティーの言葉を次のように引用している。
「私たちタタール人をカフカスの住人たちと一緒にしてはなりません。私たちはどんなに深刻な問題もお茶を飲みながら解決することができ、それ以外のコミュニケーションは考えられません。今後タタール語とロシア語とアラブ語で授業が行われるオンライン・マドラサ(学院)や著名な神学者の本が閲覧できるオンライン図書館を創設する予定です」。
2005年、カザンは建都1000年を祝った。現在、ここは、ロシア有数の経済、政治、学術、教育、観光、文化、そして、スポーツの中心の一つとなっている。
カザンのクレムリンは、ユネスコの世界遺産に登録されており、町そのものは「ロシア第三の都」というブランドをそなえている。
ユネスコの保護のもとで世界初の世界文化研究所が創設され、今年の夏季ユニバーシアードに続いて2015年には水泳の世界選手権、2018年にはサッカーのワールドカップが開催される。
独立非営利法人「第27回夏季ユニバーシアード執行管理部」の総責任者ウラジーミル・レオーノフ氏は「スポーツイベントのおかげで、大衆スポーツのインフラが強化されました。タタールスタンは経済的に大きな魅力をそなえており、テクノパークや特別経済ゾーンがあります。地理的にもたいへん有利な場所にあり、生産施設や物流拠点もたくさんあります」と胸を張る。
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穏健な共和国で寛容さが薄れつつある
ファリド・ハズラト・サルマン氏
イスラム融和協会・神学者会議議長
「タタールスタンにおける平和の鍵は民族的な精神構造にあります。タタール人はほかのイスラム民族とは異なり、極めて寛容で、かなり欧州化されているからです。
私たちは正教徒にもユダヤ教徒にも常に友好的でした。だが、現在、若者の間では寛容さは次第に薄れつつあります。伝統的なイスラム教のサイト一つに対し、非伝統的な宗教形態の信奉者であるワッハーブ派やサラフィー派のサイトは20を上回っているのです。
タタールスタンは北カフカスとは異なり、宗教的要因の紛争がほとんど起こらない地域です。それでも、共和国内部に対立があり、社会には不安が感じられます。
私はタタールスタンにおける反テロ作戦の後に、イスラム教を支持する国家機構が宣伝活動を展開すると思っていましたが、それはありませんでした。
ソ連崩壊まで私たちはみな同じ一つの共和国で暮らしていました。
ところが、今はタジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンで過激主義の信奉者だった出稼ぎ労働者たちがやってくるのです。
国内外の移住の結果、ロシアのイスラム教徒の民族・宗派的な構成は変化しています。
昔から、説教は第一にタタール語で行われるべきである、とされてきました。しかし、今多くの地域でタタール語の説教は姿を消しました。説教はロシア語に移行すべきだとする過激な神学者がたくさん現れました。
これは共同体内部の対立を、民族的ではなくメンタルで神学的な性格の問題をはらんでいます。」
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