レーニンカ
旧ソ連のほとんどの居住地にはレーニン通りがかつてあった。あるいは、現在も数多く存在する。しかし、ロシアで「レーニンカ」の通称で呼ばれ、今も呼ばれるのは「ロシア国立図書館」だけだ(1925~1992年には、ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンにちなんで、ソビエト国立レーニン図書館が、その正式名称だった)。
ルイコフカ
1923年、人民委員会議(内閣に相当)は、帝政時代以来の長期の禁酒法施行の後に、すべてのアルコール飲料の製造再開を決めた。ロシア帝国では、第一次世界大戦が始まってから、禁酒法が実施されており、ボリシェヴィキ政権も、これを数回延長していた。1924年12月、安価なウォッカが店頭に並び、人民委員会議議長(首相に相当)アレクセイ・ルイコフ(1881~1938)の姓にちなんで、「ルイコフカ」と呼ばれるようになった。
しかし、「ルイコフカ」は本物のウォッカではなく、度数は30 度ほどしかなかった。1924年12月20日、作家ミハイル・ブルガーコフは日記に次のように記している。
「モスクワでは大ニュース。30度のウォッカが売り出され、人々はそれを『ルイコフカ』と呼んでいるが、もっともなことだ。帝政時代のウォッカと違って、度数が10度も低く、味も悪いのに、値段は4倍高いのだから」
「ルイコフカ」の値段は1ルーブル。このお金で、ひまわり油2リットル、魚4キログラム、ジャガイモ20キログラムが買えたから、飢餓の時代には大金だった。
スターリンカ
「スターリンカ」は、ヨシフ・スターリンの時代〈1930 年代初め~1950 年代初め〉に、普通は新古典主義様式で建てられた高層住宅や高層ビルだけを意味したわけではない。それらの中の個々のアパートも指す。「スターリン様式」の建築様式は、しばしば「スターリン・アンピール」と呼ばれる。
マレンコフカ
驚いたことに、ゲオルギー・マレンコフにちなんで、ソ連国内の住宅にあだ名がついたこともある。彼は、2年ちょっと(1955~1957年)ソ連閣僚会議議長(首相)を務めたにすぎなかったのだが。
すでにスターリン政権下で、簡素化されたブロック、レンガ、コンクリートパネルの住宅に人々を大量に移住させる計画が策定され始めていた。ソ連では住宅問題が深刻だったからだ。
簡素化された設計による最初のレンガ造りの住宅は、「マレンコフカ」と呼ばれた。スターリンカから引き継がれたのは、ファサードの装飾が最小限で、天井が高いこと。しかし、階数は少なく、アパートの面積ももっと狭かった。
フルシチョフカ
この「ブランド」は、旧ソ連だけでなく、旧社会主義圏でも知られている。「フルシチョフカ」は、当時の標準住宅(通常は5階建て)で、アパートは小さく、設計もシンプルだ。1960年代のソ連で、住宅が大量に建設された時期に、ニキータ・フルシチョフ第一書記(1958~1964年に首相)のもとで建てられた。
ブレジネフカ
「フルシチョフカ」に類する通称で、「ブレジネフカ」とは、ソ連の、パネル工法による9~17階建ての集合住宅だ。同タイプのものが大量に建てられた。
「フルシチョフカ」と比べると、設計は改善されている。プロジェクトがレオニード・ブレジネフの時代(1964~1982年)に策定されたため、ブレジネフカと呼ばれたが、このタイプの集合住宅そのものは最近まで建てられていた。
アンドロポフカ
「アンドロポフカ」は、ソ連で最も安価なウォッカ「モスコフスカヤ」の通称だ。このウォッカの価格は、ユーリー・アンドロポフ書記長(1983~1984年)のもとで引き下げられた。ブレジネフ時代の1972年、ソ連政府は、ウォッカの最低価格をボトル1本あたり2ルーブル87コペイカから3ルーブル62コペイカに引き上げた。モスクワオリンピック後の1981年には、さらに5ルーブル30コペイカに上げられ、次のようなチャストゥーシカ(ロシア民謡の形式の一つ)まで生まれている。
前は3だったけど今じゃ5だ――それでも買うぜ!
8になっても――飲むのは止めない!
イリイチに伝えてくれ――10でもだいじょうぶさ!
ユーリー・アンドロポフは、書記長に就任し権力を握ると、「モスコフスカヤ」の価格を4ルーブル20コペイカに値下げした。当時は、180~200ルーブルの給料がまともだと考えられていた時代だ。そして、ウォッカ「モスコフスカヤ」は「アンドロポフカ」と呼ばれるようになった。