ユーリー・アンドロポフに関する5つの事実:ソ連を統治した唯一のKGB出身者

Eduard Pesov/Sputnik
 ハンガリー動乱の鎮圧から汚職との戦い、ソ連経済再建の試みにいたるまで、ユーリー・アンドロポフ(1914~1984年)の生涯は大変興味深い。 

 ユーリー・アンドロポフは、1914年6月15日に生まれている。人生最後の15か月間を、健康が急速に悪化するなか、ソ連の指導者を務めた。それ以前は、約15年間にわたり、強大な秘密警察「KGB」を率いた。彼は厳格な官僚だったと考える人もいるし、自由主義者だと思う人もいる。そう思う人は、もし彼に十分な時間があれば、ソ連崩壊を防げたかもしれないと言う。さてアンドロポフとはどんな人物だったか?

1. 隠れた素顔 

レオニード・ブレジネフ氏(真ん中)を含むソ連の指導者、アンドロポフ氏は左から2人目。

 アンドロポフは、出自を含め、自分の個人生活については常に寡黙だった。彼の祖父はユダヤ系の裕福な商人だったという噂が広まっていたが、アンドロポフはそれをいつも否定した。

 彼は自分の家庭についても語らなかった。5年間結婚生活を送り、息子をもうけたが、離婚後は、息子と元妻とはほとんど連絡を取らなかった。 

 職務の上でもアンドロポフは「秘密の男」だった。彼が就いていた高いポストがそれを要求した。

「人々はKGB議長が彼であることをほとんど知らなかった。どの国でも、情報機関を率いる人は、有名になりたいなどと思わないし、そんなことは期待できない。とくにソ連のような国ではなおさらだ」。歴史学者ロイ・メドヴェージェフは、その著書『知られざるアンドロポフ』のなかでこう書いている。

 1982年に突然、彼は、死去したレオニード・ブレジネフの後を受けて政権を引き継ぎ、公の人となったが、実質ある公のイメージを形作るには、彼の統治期間はあまりにも短かった。

2. ハンガリー動乱を鎮圧

ハンガリー動乱、1956年11月

  アンドロポフのキャリアは、1954年にソ連外務省でハンガリー大使に任命されたのをきっかけに急上昇していく。2年後、ハンガリー動乱が勃発。ハンガリー社会の一部は社会主義国家からの独立を要求した。

 それはすぐに武力紛争に変わった。アンドロポフは、この事件を「反革命、反社会主義の暴動」と呼び、ソ連の指導部と連絡を取りつつ、軍隊を派遣してハンガリーの社会主義政府を支援すべきだと考えた。そして彼は、ハンガリーにおける親ソビエトの軍隊の行動を調整する。この軍隊は、ソ連軍の到着とともに、ハンガリーを社会主義国に保つことを可能にした。しかし、動乱中に2500人以上が死亡している。

 1957年、アンドロポフは、ハンガリーを去り、モスクワに戻った。だが、怒り狂った群衆が警官を殺害していた光景を決して忘れることはなかった。ソ連の外交官オレグ・トロヤノフスキーはこう回想する。

「アンドロポフは、ハンガリーの1956年の事件について、その後も折に触れ話し続けた。彼はよく言ったものだ。『あなた方は、それがどんな様子だったか到底想像できまい。何十万人もの人々が街にあふれ、完全に制御不能になっていた』」

 トロヤノフスキーはこう確信していた。アンドロポフは、ソ連でそうした光景を目にすることを恐れ、それを防ぐために全力を尽くしていた、と。

3. 慎重な外交官 

ユーリー・アンドロポフ氏、1962年

 しかし同時に、アンドロポフには柔軟性があった。1957~1967年に彼は、ソ連共産党中央委員会で、外国の社会主義政党との関係を担当する部門を率いていた。当時の彼の顧問や若い知識人は、しばしば彼を「リベラルな」リーダーとして回想する。

「この部屋では、我々全員がまったくオープンに本音を話すことができる。しかしこの部屋を一歩出たら、規則に従ってプレーしなければならない」

 政治学者ゲオルギー・アルバトフは、アンドロポフのこんな言葉を覚えている。この言葉の意味は、我々は自分たちの仲間内ではソビエト体制を批判することができるが、あくまでも国家に忠実であることを忘れるな、ということだ。

 いく人かの歴史家は、西側との緊張緩和(デタント)の路線を発展させたのはアンドロポフだったと述べてさえいる。

「アンドロポフは、ブレジネフの対西側政策を構築した(1970年代末のいわゆる『デタント』のこと。当時、ソ連と西側との関係が多少改善された)」。ドイツの歴史家スザンヌ・シャッテンベルクはこう言う。

 こうした外交政策を推進した外交官である一方で、ソ連国内ではアンドロポフは常に厳格だった。  

4. 剛腕でKGBを率いる 

KGB議長のアンドロポフ氏(右)が、トラクター工場の労働者に話しかけている。

 レオニード・ブレジネフによる長期の統治の間(1964~1982年)、アンドロポフは、政権の最重要人物の一人であり、1967年以来KGBを率いていた。彼は多くの問題を扱った。そのなかには、中東、アフガニスタン、チェコスロバキアの危機、ソ連の地域紛争などが含まれる。

 そしてアンドロポフは、ソ連国内の反体制運動を抑圧した。数十人の反体制派が、「精神病」を口実にして精神病院に収容され、さらに数十人がソ連国外に追放された。

 「アンドロポフは、反対派との闘いにおいて彼が果たした役割を決して恥じていなかった」。こうメドヴェージェフは書いている。

「彼は高い教養を備えた知的な人物だったが、ソ連共産党に対して民主的な反対が湧き起こったり人々が批判したりするといった事態は許容できなかった。彼は、KGBはソ連にとって不可欠で枢要な組織だと考えていた」

 こうしたアプローチが、高い効率とプロ意識と相まって、アンドロポフは、ブレジネフにとってかけがえのない人物になった。

5. 汚職との闘い 

ソ連の60周年にちなんだソビエト連邦最高会議。

 これが、ブレジネフがアンドロポフを後任に選んだ理由の一つだ。1982年、ブレジネフはアンドロポフをソ連第2のポストに指名した。アンドロポフは68歳だったが、彼の長年の上司ブレジネフの死後、わずか15ヶ月間指導者のポストを務めただけだった。

 アンドロポフは、政権の座にあったときに何をなし得たか?彼はよく承知していたのだが、ソビエト経済は莫大な軍事費によって不安定化し、問題を抱えていた。そこで彼は、それを正そうとした。そのために彼は、汚職と「闇経済」との闘いを始めた。闇経済は、ブレジネフ時代の後期に蔓延し出していた。

 その一方でアンドロポフは、規律の強化によっても経済状況を改善しようとした。警察は、勤務時間中に路上にいたり、酔っ払ったりしたかどで人々を拘束し始めた。

 そうした措置は、確かに人々に印象を与えはしたが、極めて非効率的だった。アンドロポフの死後、ペレストロイカ期にミハイル・ゴルバチョフを支えた政治家アレクサンドル・ヤコヴレフはこう述べている

「アンドロポフの改革の効果は要するに、燃料を使い果たした電車を磨き立てることで速度を上げようとするようなものだった」

 おそらくアンドロポフは、これらよりもっと大きな計画をいくつか立てていたのだろうが、運命は、それらを実行する時間を与えなかった。

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