ソ連では、不動産の大部分は、国家が所有しており、誰にアパートを与えるか否かは国が決めた。アパートを手に入れるために、住宅条件の改善を申請することはできた。ただし、かなり長い順番待ちとなったが。家庭内で一人当たりの居住面積が9平方メートル未満であれば、誰でも申請の権利があったものの、アパートが手に入るまで、平均 6 ~ 7 年もかかった。
また、生涯にわたり無料で借りる形で、住まいを手にすることも可能だった。ただし、無料で住めはしたが、居住者の所有ではなかった。このようなアパートは、売却、贈与も、遺贈もできなかった。
ソ連における不動産“市場”の自由化の第一段階は、1958年に行われた。このとき、アパートを購入できる住宅協同組合がソ連全国に現れ始めた。この種の住宅では、平方メートルあたりの価格が固定されており、6~8千ルーブルだった。これは、ソ連の庶民には手の出ない価格だ。
この金額は何回かに分割かされたが(現代の住宅ローンに似ていた)、それでも、頭金は大抵の国民にとって高すぎた。そのため、ソ連におけるこうしたアパートの割合は10%以下にすぎなかった。しかも、誰かが協同組合アパートを売却することを決めた場合、組合員すべての承認を得る必要があり、それも固定価格で売らなければならなかった。
自由な不動産取引が禁止されていたこの状況において、人々は、回避策を模索し始める。たとえば、アパートの交換だ。最も一般的なタイプの取引は、追加料金をともなう「不等価交換」だったと考えられる。こういう取引は、追跡が非常に難しかった。
「毎週日曜日、市場には、『3を1+1に交換』(*つまり、3部屋のアパートをワンルームアパート2つに交換することを希望)といった類の紙のポスターを持った人が、たくさん見られた。でも、警察が現れるとすぐに消えてしまったものだ」。タチアナさんは当時をこう振り返る。
彼女の友人は、そうした不動産取引の仲介者として長いキャリアを積んでいた。こういう人々は「マクレル」(ブローカー、仲介者の意味)と呼ばれた。ソ連で不動産交換を手助けできたのは彼らだけだ。
ブローカーは、「半合法的」な不動産交換業者だった。ソ連では彼らだけが、アパート交換という多段階の取引をうまくやってのけられた。それというのも、人々が、自分で適切なオプションをすぐに見つけられることはあまりなかったからだ。通常、数家族、時には 10 家族以上が、交換希望者のグループに参加し、最終的には、全員が必要なものを手に入れた。
しかし、こうした複雑なスキームは、誰かが管理し、かつまたそこでの取引の一種の保証人として機能する必要があった。その理由は、せっかく構築された交換計画が、ある時点で崩壊してしまい、取引への参加を決めた人がお金や自分の住居を失わないようにするためだ。
これは通常の売買ではなく、実際には不動産の交換にすぎなかったのだが、この難しい作業は事実上違法だった。
「売却は、主に偽装結婚によって可能だった」。1980年代初めからブローカーを務め、現在は不動産業者をしているゲンナジー・メシュトキンさんは当時を思い出す。「アパートに住んでいる人が結婚して、配偶者を住居登録(プロピスカ)し、その後離婚する。そして、そのいわゆる売り手は、お金を受け取って自分の登録を解消するというわけ」
しかし、結婚を通じてアパートを交換するプロセスは時間がかかった。その間に、売り手と買い手の家庭状況がどちらも変わる可能性があったから、誰もがこれを行う用意があったわけではない。
優秀なブローカーは珍重され、彼らも自分の評判を大事にしようと努めた。なぜなら、この半ば非合法な分野では、すべての関係とコネは、クライアントや他のブローカーからの推奨のみに基づいていたからだ。しかし、ブローカーは、自分のサービスの報酬として、ソ連の基準からすると高額のお金(取引ごとに200~800ルーブル)を要求した。もちろん、誰もがこのような大金を持っていたわけではない。こうした料金は、主に仕事のリスクによるものだった。こんな活動をしたかどで、全財産を没収され、3年間の懲役を科せられる可能性があった。
当初、人々は、不動産の交換に参加したいときは、新聞に広告を出し、ノリリスクのアパートをモスクワのそれに交換したいとか、自分のアパートを同じ市内の別のそれに交換したいとか書いた。
当事者同士が単にアパートを交換するのは合法だが、多段階のスキームは違法な一種の詐欺行為とみなされており、刑事罰を受けかねない。そこで、追跡されにくくするために、一種の「陰謀」が必要だったわけだ。しかし、ブローカー市場が発展するにつれて、状況は好転し始める。やがて、アパートの交換は、新聞紙面から現実の場で行われるようになった。それが、アパート交換“事務所”だ。
不動産の交換の広告
Vladimir Medvedev/TASSブローカーが集まる場所があり、そこで、どこに潜在的な顧客がいるか、どの新聞に不動産交換の広告が載っているかなど、お互いがもっている情報を交換した。
顧客も時々そういう場所に直接やって来て、取引の詳細をその場で話し合ったり、交換希望者のグループに参加しそうな人を見つけたり、ブローカー自身の話を聞いたり、アパートの内見について取り決めたりすることがあった。ブローカー(とその顧客)にとって最も人気のある待ち合わせ場所は、モスクワのバンヌイ横丁だった。そこに、最初のアパート交換“事務所”があった。
ブローカーに払い過ぎないように、多くの人が、まるで出勤するかのように、“事務所”に行き、広告が貼られた手製のスタンドを一日中眺めていた。
「私の知人のイリーナは、両親の3部屋のアパートを、自分と両親それぞれのためのワンルームアパート2つと交換した。しかし、息子が生まれた後、彼女は気づいた。彼女と夫は、住宅を提供してくれない企業で働いているので、この方面では当てにできないことを。そこでこの夫婦は決心した――アパート交換でお金を稼ぎ、自分たちの3部屋のアパートを手に入れてやるぞ、と。そして、実際に稼いだのだった。
最初のうち彼女は、他の人たちのアパート交換を手がけた。ときには彼女の『交換グループ』に20家族以上が参加することもあった。その際に、交換によって、多くの人が、居住面積を数平方メートル減らす結果となった。イリーナは、自分のアパートを交換グループに含め、自分のワンルームアパートを、数平方メートル広いワンルームと交換した。
その後、彼女は夫と形の上だけ離婚し、大きなワンルームアパートが 、2 つの小さなアパートに分割された。そして、それぞれの面積が再び増やされ…等々の手続きが延々と行われた。10年後、彼女は、自分の4部屋の大きなアパートを手にしたが、それまでに30回にのぼる引っ越しを経ていた」。タチアナは旧友についてこう回想している。
ただし、自力でアパート探しをすると、あまり良心的でない人に遭遇しかねなかった。
「半年間、私はキツツキが木をつつくように、倦まず弛まずこれ(*アパート探し)を続けた」と、作家のマリア・アルバトワさんは回想する。
「その間に私たちは、いろんな由来やいわくつきのアパートをたくさん見た。そして、単にそれが気晴らしになるという理由でアパート交換をやっている人たち――とくに年配者が多かった――がいた。そういう人のところへ行って、交渉を始める。すると、当方はすべての条件に同意したというのに、翌日、その人から電話がかかってきて、『気が変わったよ』と言う」
ブローカーによる不動産交換の黄金時代は、ソ連崩壊とともに終わりを告げた。1991年に「住宅の民営化に関する法律」が採択され、私有財産の時代が始まったからだ。これまで何も完全には所有していなかった国民は、不動産を処分する権利を得た。
たとえば、これまで住んでいた国有のアパートを「私有化」する権利だ(ただし、いまだに私有化の順番待ちをしている人もいる)。また、自分で新しいアパートを購入できた人もいる。そのための合法的な方法がいまや現れたからだ。
人々が市場経済でのノウハウを徐々に身につけ始めたので、ブローカー市場は急速に衰退していった。とはいえ、彼らの多くは、不動産市場から離れず、単に不動産業者として「再訓練」されただけだったが。
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