ソ連諜報機関による原爆入手の舞台裏

「若き親衛隊」の著者アレクサンドル・ボンダレンコ氏

「若き親衛隊」の著者アレクサンドル・ボンダレンコ氏

ユリー・マシコフ/タス通信撮影
 作家、特務機関史研究家、退役陸軍大佐のアレクサンドル・ボンダレンコ氏は、第二次世界大戦中のソ連の対外諜報部門の責任者パーヴェル・フィーチンに関する著書を「若き親衛隊」出版所より上梓した。本書の主人公、ソ連の諜報活動、戦争の行方やソ連の核エネルギー経済創出へのその影響について、著者に話を伺った。

- アレクサンドル、あなたがフィーチン氏に関心を抱いた理由は?

 私は、かねてからロシア対外情報庁(SVR)のプレス局とつながりがあり、私たちは共同で、戦勝70周年を迎えるにあたり、不当に忘れられたパーヴェル・フィーチン氏の生涯を本にしたら面白かろうと考えたのです。私は、信頼できる筋から、諜報機関について書いている有名な作家の一人がこうした本を私が著したと聞いて思わず泣いてしまったことを知りました。なぜなら、本人もこのテーマに気づかなかったからです。フィーチン氏は、極めて興味深い人物ですが、ご多分に洩れず、単に忘れられてしまいました。

 

-氏の足跡は、今、歴史にとってアクチュアルなのですか?

 はい。というのも、まさに彼が、ドイツによるソ連侵攻の大きな可能性についての報告書をベリヤ経由でスターリンへ送付したものの、聞き入れられなかったのですから…。

 フィーチン氏が自ら示したウラルの田舎の若者が出世する例は、たいへん貴重です。

 彼は、チミリャゼフ名称アカデミーを卒業し、農村向けの図書の出版所で働き、そこから保安機関へ入ります。当時は、粛清の嵐が特務機関に吹き荒れ、高等教育を具えた若者を800人ほど集めなくてはなりませんでした。彼は、内務人民委員部(NKVD)の諜報課へ遣わされたもっとも若い職員の一人でしたが、たった一年務めただけで課長となりました。彼の仕事の進め方や「ベテランたち」との意思疎通の巧さには、目を瞠るものがあります。本書では、彼が戦線にいた若者の一家を救ったときの逸話を紹介しています。その一家は、後方で貧窮の状態にあり、フィーチン氏は、それを知るや否や問題を解決し、彼らは、住宅を充てがわれて給与名簿に加えられましたが、戦時中にそうした厚遇を施されることの意味は計り知れませんでした。

 

-当時、フィーチン氏は何歳でしたか?

 彼は、31歳で諜報課長となり、事実上、彼によって現在の諜報機関が創り出されました。しかも、諜報機関ばかりではなく、核開発に従事するものを含む重要な生産施設がある有名な戦略上の閉鎖都市も、彼の発案でした。彼は、最初に核プロジェクトの将来性を認識し、それに注意を向けるよう指導部を説得し、彼のおかげで、ソ連の原爆がアメリカのそれとほぼ同時に出現したのでした。彼は、国の指導部の決定採択を助ける情報活動を軌道に乗せ、現在、それは、諜報機関の主な活動の一つとなっています。

 

- 本書から大祖国戦争に関する新たな事実を知ることができますか?

 新しいこと、それは、国の指導部が諜報機関の情報を軽視していたということを文書や目撃者の回想をもとに私たちが確信できる、ということです。

 というのも、フィーチン氏の極めて貴重な情報は、真剣に検討されなかったからです。もしもそれらが違ったふうに扱われていたなら、莫大な人的損失は回避できたことでしょう。

*「若き親衛隊」の編集部のご厚意により、アレクサンドル・ボンダレンコ氏の著書「フィーチン」から、第二次世界大戦中のスパイ作戦「エノルモズ」および核兵器開発に関する部分を以下に引用させていただく。

<…>我々は、1942年12月22日にロンドンからモスクワへ、英国ばかりでなく米国でも遂行されている活動に関する仔細な報告が届いたことを知っている。入手された文書から、アメリカはすでに例の爆弾の開発の面でイギリスに大きく水をあけていることが判った。さらに、我々は、「エノルモズ」という響きのよい名を付けられた作戦が諜報機関において開始されたことを知っている(科学技術諜報課が英米担当の第五局の傘下にあったので、そうした名称も不思議ではない)。「エノルモズ」とは、英語からは「莫大な」とか「巨大な」などと翻訳されて米語からは「悍ましい」とか「恐ろしい」などと翻訳される「エノーマス」のロシア語読みである。

 しかし、その作戦がいつ正式に開始されたかについては、我々にはなぜか告げられなかった…。

 「ソ連の原爆の父」として知られる科学アカデミー会員のイーゴリ・クルチャトフ(まさに彼がいわゆる両機構間の関係を維持していた)は、諜報機関から得られた資料を評価しつつ、1943年3月に人民委員のベリヤへこう書き送った。

 「資料を検討した結果、それらの入手は私たちの国家および科学にとって莫大で計り知れない意義を有していることが判りました。資料は、極めて労力のかかる問題処理の多くの段階を避けて、私たちの科学研究にとっての極めて重要な指針を手に入れ、新たな科学技術的な問題解決の途について知る、可能性を与えました」

 ほどなく、ラヴレンチイ・ベリヤは、「核プロジェクト」のキュレーター(管理責任者)となる。

* * *

 ソ連の諜報部員らがプロジェクト「エノルモズ」においてどのように活動していたかを詳述することは、差し控えたいと思う。なぜなら、その具体的な活動は、本書の主人公とは間接的にしか関わっていないのだから。

 しかし、すべては、まさに彼のおかげで始まり、専門家らの考えでは、もしもフィーチン氏がイギリスひいてはアメリカの研究に関する報告に注意を向けなかったなら、すべては、放置されていたことだろう…。戦争で、それどころではなかったから。

 彼は、諜報課長として、その活動を司り、それを方向づけ、具体的課題の解決のために課員を海外へ派遣した。各人には、それぞれの役割があったが、それは、諜報でも人生でも同じことだ。

 そのかわり、これはもうフィーチンに直接かかわる事柄だが、我々は、ほどなくわが国の軍事諜報機関も「核プロジェクト」の活動に組み込まれたことを確認することができる。イギリス国籍を取得したドイツの共産主義者で世界的に有名な理論物理学者であるクラウス・フックスは、自発的に同機関との関係を樹立した。しかし、1943年、国家国防委員会は、ドイツの軍事的・政治的プランの入手が軍事諜報機関の主な任務であるとする決定を採択し、科学技術的問題は、もっぱら内務人民委員部(NKVD)の科学技術諜報機関の特権となり、フックス氏は、対外諜報機関と連絡を図るようになった…。

 「核プロジェクト」において遂行された活動の規模と方向に関しては、1944年11月5日にパーヴェル・フィーチンによって承認された「極秘」プランからだけでも判断できる。

* * *

<…>アメリカのプログラムのもっとも重要な施設は、ロスアラモス核研究センターである。この施設では、およそ4万5千人の軍人および民間人が働いており、最初の原爆の製造には、12人の欧米のノーベル物理学賞受賞者が携わっていた。

 もちろん、これらの人々は、彼らが今何に従事しているか、近く核兵器がどのような役割を演じるか、ということをよく弁えていたばかりでなく、将来のことをよく考えてもいた。それゆえ、一部のアメリカの学者は、ソ連と核の秘密を分かち合うよう提言する書簡をルーズベルト大統領へ送りさえしたが、彼らの提案が支持されなかったことは、言うまでもない。

 当時、それらの思慮深い人々(具体的にはおそらくそれらの人々ではなく、私たちはそれがまさに誰であるかを正確には知らない)は、別の方向からアプローチする、つまり、自らソ連へ「核の秘密」を渡すことにした。ニューヨークの諜報機関の情報筋は、それをこう説明した。

 「そうした恐ろしいものを委託することができるのは、ソ連のほかにない。しかし、私たちに、他の国々からそれを取り上げることができない以上、ソ連に、その存在を知ってもらい、進歩と経験と建設について知っていてほしい。そうすれば、ソ連は、恐喝されるような国にはならない」

* * *

<…>人々は、共産主義的な信念とはおよそ無縁な人々でさえ、しかもまったく私心なく、ファシズムとの正義の闘いを行うソ連を支援しようとしており、その大戦の終結後にソ連が世界で最強の帝国主義的大国を前にして丸腰であることを欲していなかった…。

 たとえば、アメリカ人がそう呼んでいた「マンハッタン計画」に関するたいへん貴重な「極秘」資料の入った袋を何者かがニューヨークのソ連総領事館へ届けるというケースが見られた。「贈与者」は、袋を置くとすぐに立ち去り、その身元は、特定できなかった…。

...情報は、さまざまな筋から届いていたが、私の知る限り、それはすべて極めて信頼に足るものであり、誤った資料もしくは「無理筋(成立しないヴァリエーション)」は一切なかった。しかも、西側では、「マンハッタン計画」が絶対的な秘密のヴェールに包まれて特務機関がそうした秘匿体制の遵守に努めていたにもかかわらず、プロジェクト「エノルモズ」に関するソ連の諜報機関の活動についてはひじょうに長いこと誰も知らなかった。それゆえ、1945年7月のポツダム会談で米国のハリー・トルーマン大統領がスターリンに「絶大な破壊力の原則的に新しい兵器」の実験について知らせたとき、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ(スターリン)は、その知らせに極めて冷静に反応し、西側のリーダーらは、皮肉を洩らしさえした。チャーチルは、後に回想録にこう記している。「スターリンは、自分に伝えられたことがいかに重要であるかを些かも認識していなかった」

 しかし、周知の通り、最後に笑う者がよく笑う…。最後に笑ったのはスターリンと言えるかもしれない。1949年8月29日にソ連で初の核兵器実験が行われたときに。