左:ラヴリネンコ、画像提供:wikipedia.org
ラヴリネンコは1914年、コサック大村ベスストラシナヤで生まれた。パルチザンだった父が内戦で戦死したため、母が女手一つで息子を育てた。成長したラヴリネンコは学校の教師になる。
「実を言うと、女子生徒は皆ラヴリネンコ先生に恋してた。先生は気づかなかったか、または気づかないふりをしていた」と、当時生徒だった女性は話している。
だがやがて教師生活も終わる。軍の志願兵になり、1938年には戦車学校を卒業。中隊隊長の評価によると、ラヴリネンコは「技術を愛し、早く習得しようと努めた。あらゆる種類の武器から命中させ、仲間からは『狙撃兵の目』と呼ばれていた」という。
冷血な戦術家
ラヴリネンコ中尉は様々な軍事作戦で経験を積んだ後、西部戦線に入り、ここで戦車小隊の指揮をとった。だが配備換えばかりで、中尉の戦車は戦うことなく部隊から外れた。
「穏やかで優しい」ラヴリネンコ(と友人が描写)は、技術の話になると性格をあらわした。退却の際は故障のある戦車は必ず破壊し、敵の手に渡らないようにするのが決まりだったが、「破壊せよ」との号令に中尉は「戦車を無駄にしてはいけない」と従わず、修理のために自分の戦車をけん引した。とはいえ、小隊はやがて新しいT-34を受け取ったのだが。中尉はこの時、こう言った。「これでヒトラーに”借り”を返せるわけだ」
修理済みの古い「BT-2」戦車と比べて、T-34は優れ物だった。敵の戦車が壕をつぶし始めた時には、中尉の号令で4両のT-34が歩兵支援に送られた。ソ連時代のデータによると、小隊はこの時、敵の戦車15両を撃破したという。
「冷血な戦術家」と中尉は歴史学者に書かれた。戦いの前はいつも、入念に攻撃の方向を調べ、偽装。ムツェンスクの戦いの際には、「自分たちの戦車を徹底的に偽装し、戦車の大砲に似た丸太を陣地に置いた。するとナチスドイツ軍は偽の標的にめがけて発砲してきた。敵を不利な場所におびき寄せた後、ラヴリネンコは待ち伏せていた場所から発砲し、撃破した」とドミトリー・レリュシェンコ将軍は話している。
理容院でのできごと
力を発揮したのはこれだけではない。ふと立ち寄ったセルプホフの理容院では、こんなできごとがあった。1941年10月、ナチスドイツ軍はこの街に大隊を送りこんだ。地元の電話交換手が勤務中に車列に気づき、市の司令官に通報。市内には少年と高齢者から構成される大隊1隊しかなかったため、司令官は慌てたが、理容院のわきにT-34が1両停車しているという話を聞く。戦車に近づくと、そこにはラヴリネンコがいた。「燃料あり、弾薬一式あり、ナチス・ドイツ兵と戦う用意はできている。道を教えてほしい」とラヴリネンコ。
広い野原の真ん中にくぼ地を見つけ、そこに戦車を隠し、大砲の後ろに座った。ラヴリネンコは敵との接近を恐れていなかったため、150~400メートルの距離まで敵が近づいたところで1両目に砲撃を加えた。敵の車両は炎上し、後列の道をふさいだ。ラヴリネンコは他に2両攻撃してからその場所を離れ、援軍が来るまで敵の車列に体当たりした。その結果、捕虜を確保し、武器、貴重な書類を奪うことができた。
「死ぬつもりはない」
ラヴリネンコは3回炎に包まれた。だが仲間には無敵、不死身に思えた。「私のことは心配しないでほしい。死ぬつもりはないから。すぐに手紙を書いて」と1941年11月30日に家族に書いている。
19日後、ラヴリネンコは死亡した。いつものごとく戦いに勝ち、戦車から報告書を持って出た時、放たれた迫撃砲の破片があたって致命傷を負った。28回目の戦車戦がラヴリネンコの最後の戦いとなった。
遺体は通りのわきの死亡した場所に埋葬された。1967年、学校の児童からなる捜索隊が埋葬場所を発見。1990年、ドミトリー・ラヴリネンコにはソ連の英雄の称号が与えられた。
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