アナトリイ・ガラーニン撮影/ロシア通信
モスクワ動物園は大祖国戦争の開戦前、繁栄期を迎えていた。新たな移転場所が開業し、小さな檻の中ではなく、金網で囲まれた敷地を走り回る動物を、来園者は見ることができるようになった。また、ゾウ、カバ、サル、ライオン、トラなどの人気の高い種類の動物が、外国からここにやってきた。1930年代の終わりまでには、425種類の哺乳類、鳥類、両生類、魚類が園内で飼育されるようになっていた。
戦闘が始まると、アムールトラ、ユキヒョウ、ヒヒ、オオヤマネコ、ライオン、ピューマなどのより貴重な動物を、スベルドロフスクやスターリングラードに送ることが決定された。大型哺乳類で園内に残ったは、メスのライオン一頭と、園内で初めて誕生したホッキョクグマの赤ちゃん一頭のみ。
モスクワ動物園科学・啓蒙部のエレナ・ミグノワ部長はこう話す。「スターリングラードに送られた動物の一部を担当していたのは、動物学者のミハイル・コレスニコフ氏。でも前線で戦死したため、動物がどうなったのかはわからない。スベルドロフスクに送られたアフリカゾウ、サイ、ヌー、シベリアアイベックス、タイゴン、アラビアヒョウ、チンパンジーなどの一行は、無事現地に到着した。ただ、ゾウ、サイ、また大型のネコ科は、飼育条件の難しさから死んでしまった」
大型哺乳類部のミルザ・クルミナ部長の回想によると、同僚たちと一緒に動物園内にとどまり、自分の事務所の床で寝ていたという。また動物を馬に乗せて病院に運び、負傷者が動物と交流できるようにした。
動物園の敷地には弾薬庫や高射砲台が設置され、ここにいたオオカミ、クマ、ハイエナは、以前動物園のあった場所に戻された。もう一つの高射砲台は、当時の児童動物園の敷地の真ん中に設置された。
このようにして職員全員が爆撃に備えた。1942年1月5日午前4時、動物園への空襲が始まり、火災が発生した。
砲弾は新しい敷地の有蹄類の建物に着弾。職員は最初、すべての動物が死んだと思ったが、幸いなことに、生きていた。燃え上がる建物から、職員が有蹄類を引きずり出して行った。焼夷弾による攻撃を受けても、動物学者たちは動物たちのそばにいた。また建物の割れた窓を覆うため、自宅から毛布や私物を運んだ。命がけで動物を助けた職員は、空襲で次々に死亡していった。
戦争はさまざまな形で動物に影響をおよぼした。怯えやすいシカ、ダマジカ、野生のヤギは、爆弾の音を怖がり、金網の中であばれ、それによって多くがケガをした。「ネコ科や猛禽類、またゾウはあまり攻撃に怯えなかった。当時を知る動物園の職員によると、ゾウの一頭が、焼夷弾の消火を手伝ったそう。ゾウは自分たちの放牧場にあった堀から鼻で水をくみ上げ、燃え盛る焼夷弾に噴射し、消火していた」とミグノワ部長。
動物園はエサの問題にも直面していた。モスクワ郊外で戦いが行われていた時に、職員は弾丸の雨の下、野原で干し草集めをし、エサを用意した。肉食動物には、死んだ馬をエサとして与えるようにもなった。
1944年、モスクワ動物園には、他の動物園から動物が次々に運ばれてきた。動物を贈ったのは軍人や極地探検隊員。1945年、他の都市で購入された動物も運ばれてくるようになった。ライオン、オオカミ、ラクダ、ジャッカル、サル、ヒョウなどの動物は、モスクワ動物園の復興したフェンスに引っ越してきた。
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