戦後70年続く行方不明者の捜索

コンスタンティン・チャラボフ/ロシア通信撮影

コンスタンティン・チャラボフ/ロシア通信撮影

第二次世界大戦で行方不明になった兵士や従軍者の捜索は、終戦直後からほぼ70年間続けられている。当初は遺族恩給の受け取り支援を目的としていたが、現在は歴史の復元に変わっている。

 不明兵士の捜索運動自体は終戦直後に生じたが、活発になったのは1960年代。当時はこの運動に国家予算が配分されていたが、現在は完全にボランティア活動となっている。大ノヴゴロドの捜索隊「ドリーナ」のイーゴリ・スヴィンツォフ広報担当は、この捜索隊に加わるまで従軍記者を務めていた。参加したのはわずか3年前。「自分のためだけでなく、人のために何かができることに気づいて、行方不明者の捜索を行うようになった」とスヴィンツォフ広報担当は話す。大ノヴゴロドの近くには前線が2つあり、約80万人が死亡。発見されて埋葬されたのは10万人強。したがって今後数世代分の捜索、発掘活動がある。

 

武器は国家に、記憶は親族に

 スヴィンツォフ広報担当によると、捜索中に武器を発見することもあるが、それは捜索対象ではないという。「戦車や飛行機を見つけることもあるが、地中で見つかったものは法律で国家の所有物とされているから、手元に残すことはない」

 このような運動へとかきたてる動機は、何よりも人の役に立ちたいという思い。兵士の遺骨を見つけ、その兵士の遺族を探す。戦後、戦死した兵士の未亡人や遺族は恩給の支給対象となったが、行方不明の兵士の場合、支給はなかった。そのため、運動を立ち上げた人は、兵士の遺骨とその名前入りのロケットペンダントを見つけると、親族探しを始めた。食い扶持の稼ぎ手を失った遺族はこの運動によって恩給を受けられるようになり、生活は楽になった。

 今でも多くの人々が祖先に何が起こったのか、どのように死亡し、どこに埋葬されているのかを知りたがっている。兵士の遺骨が発見された場所には人々が訪れ、慰霊碑を設置するなどして、死亡した現場に印を残そうとしている。「我々は2013年、従軍看護婦の遺骨を発掘し、誰かを調べて親族に連絡した。トヴェリ州から親族が来て、本人の手紙の内容から、その看護婦には前線に婚約者の兵士がおり、一緒に従軍していたようだ、と話した。我々はこれまでの記録を調べ、この遺骨発見現場のすぐ近くで20年前、婚約者の遺骨が発見されていたことを突き止めた。看護婦の親族は2人のオベリスクを設置した」

 

若者も参加

 ミハイル・フェシン先生は1989年から2002年まで、学校の生徒たちと発掘調査を行っていた。この間発見した遺骨は1200体。このグループが所在しているサラトフ市での戦闘活動はなかったが、師団が結成されており、市内の学校の1校には師団の博物館も創設された。生徒は当初、博物館で作業しながら、戦史や師団の関係者について研究していた。「サラトフの兵士が戦った場所を訪問することから始まって、その後発掘調査を行うようになった。14歳以上の生徒を連れてキャンプを行っていた。期間は2週間以内。野外条件のもとでそれ以上滞在するのは子どもにとって大変なことだから」とフェシン先生は話す。未成年が作業できないケースもあった。参加は一度のみの生徒もいれば、毎度の生徒もいた。「遺骨を見るのは必ずしも気持ちの良いものではない。皮膚や髪の毛も残っている。多くの生徒はこれに直面する心の準備ができていない。ただ、無理に穴の中を調べなくても、ロケットペンダントや他の名前入りの遺留品を探すために地面を調べることもできるし、活動の補助もできる」とフェシン先生。

 ロシア国内では数百もの遺骨収集団が活動している。活動に参加している人の数は推計で5万人。捜索活動はロシア西部だけでなく、ウラル以東でも行われている。 スヴィンツォフ広報担当によると、遺骨収集団は極東のサハリン島(日本の旧国境付近)でも活動している。「東側でも戦闘はあったし、アメリカ発の軍用機も多数墜落している。そして行方不明者もいる」

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