Lori/Legion Media撮影
測地は、欧州とアジアの境界はどちらもウラルの河川であるチュソヴァヤとイセチの分水嶺にあるという全世界で認められた理論「タチーシチェフの分水嶺の原則」に基づいて行われたが、この理論は、18世紀前半にエカテリンブルグ(モスクワから1600キロ)の創建者の一人であるロシアの歴史家で著名な地理学者で大物政治家のワシリー・タチーシチェフ(1686~1750)が打ち出したものである。
欧州からアジアへ一跨ぎ
昨今の旅行案内書では、エカテリンブルグは「世界の二つの部分に跨る大都会」とか「文化が融合する都市」というふうに紹介されている。エカテリンブルグの主な名所旧跡の一つは、欧亜の境界をシンボライズするオベリスクであるが、それは、2004年にノヴォモスコフスキイ街道の17キロ地点にある同市の森林公園ゾーンに設置されたもの。多くの旅行者は、まさにそこで一跨ぎすれば欧州からアジアへ移れるとみなしており、そのオベリスクの基礎には、欧州最端のロカ岬の石とアジア最端のヂェジニョーフ岬の石が置かれている。
ウラルの鍛冶屋は、旅行者向けにエカテリンブルグ土産のコインを造り、欧亜の「境界侵犯者」というお墨付きを与えている。毎年三月には、欧州(ピェルヴォウラリスク市)をスタートとしてアジア(エカテリンブルグ市)をゴールとする53キロメートルのスキー・マラソン「ヨーロッパ・アジア」が開催されている。
無数の測地
しかし、郷土研究家たちは、その境界は仮のものにすぎないとしており、ゲンナジー・ポロゾフさんは、こう語る。「異なる大陸を跨げるのは、ウラル山脈においてだけです。オベリスクのある17キロ地点は、たしかに分水嶺のラインにあたりますが、そこは、アジアに属するイセチ川の二つの支流の間であってチュソヴァーヤ川とイセチ川の間ではなく、真の境界のラインは、はるかに複雑であり、チュソヴァーヤ川の右岸に沿って正弦曲線の形で走り、10キロほど西を通っています」
ロシア地理学協会のメンバーであるエヴゲニー・アルチューフさんは、ロシアNOWの記者にこう説明する。「私たちは、なにも観光スポットを別の位置へずらそうとしているわけではなく、真の地理学上の境界を特定しようとしているだけです。今後、研究者たちは、三次元のモデルを製作し、それを水の入った容器に沈め、昇降装置を取りつけ、すべての希望者に分水嶺の境界を目で見てもらえるようにする予定です」
ロシア地理学協会とウラル自然科学愛好者協会の郷土研究家たちは、地形図、土地調査図、水文地質図、標高図という四つの地図を互いに重ね合わせる方法で最終的な地図を作製したが、彼らは、欧亜の境界を線ではなく帯で示そうとしており、イセチ川を欧州の境界とし、チュソヴァーヤ川をアジアの境界とし、小流や小川を除いたその両河川の間を境界の帯としている。
境界はあるのか?
欧亜の公式の境界は、人類の歴史を通してさまざまに移動しており、研究者たちは、古代よりそれを事実上思いのままに画定してきた。ドン河沿い、シベリア、あるいは、極東、というふうに。そして、それがどこを通るかに対する地理学者たちの唯一の正確な答えは、今もない。
欧亜の境界は主としてロシアを通っており、その総延長5524キロのうち約2000キロはウラル山脈に沿っている、とみなされている。境界は、オレンブルグ、オルスク、マグニトゴルスク、ズラトウスト、トルコのイスタンブールといった都市を跨ぎ、ピェルヴォウラリスク、エカテリンブルグ、レヴダ、ヂェグチャルスク、その他の町の付近を走っている。
ウラル山脈は、16世紀から世界の二つの部分の間の境界とみなされている。最初のモニュメントは、1846年、ロシアの王位継承者で将来の皇帝であるアレクサンドル二世の境界訪問を記念してベリョーゾヴァヤ山に建立され、ウラル山脈の西斜面から東斜面へ向かう峠のこの場所が、1829年、どちらもドイツ人である有名な地理学者のフンボルトと鉱物学者のグスタフ・ローゼによって自然の境界とされた。
とはいえ、生粋のウラルっ子たちは、ウラル山脈沿いの土地はつねにロシア固有の土地であり、ウラル文明も欧州とアジアの文化の「融合」ではなく独自のロシア文明である、とみなして、欧亜の境界をめぐる論争にはさほど関心がない様子であり、彼らからすると、欧州とアジアへの土地の区分など、差し迫った問題ではないらしい。
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