ロシアの空港の安全性

マクシム・ブリノフ撮影/ロシア通信

マクシム・ブリノフ撮影/ロシア通信

航空会社「ヤマル」は、仏石油大手のトタル社のクリストフ・ドマルジュリー最高経営責任者(CEO)と乗員三人が死亡したファルコン-50の惨事の後、ロシアでは特殊車両が滑走路を走行することが多いため航空機が地上の特殊車両と衝突する危険がある、と分析した。専門家らによれば、国際民間航空機関(ICAO)は、11月にロシアの民間飛行場の飛行の安全性をチェックする。

 「ロシア連邦の空港での飛行の地上の安全性の問題の分析」において、航空会社「ヤマル」は、滑走路における地上の車両と航空機の衝突の再三の脅威について報告した。それによると、2010年以降、同社の航空機にはロシアの空港における飛行の保障にたずさわる部署の従業員の違反行為による「航空関係の事案」が約18件発生した。

 同社の報告ではこう述べられている。「2004年にはもう少しでそうした惨事が起こるところだったが、公開株式会社・航空輸送会社「ヤマル」のTu-134の乗員の高度な職能と技量のおかげで、サレハルド空港の滑走路へ無許可で出動した除雪車と飛行機の衝突を回避できた(機長と教官パイロットは乗客の生命を守ったとして剛毅勲章を授与された)」。

同社の報告によれば、今年だけでも、同社の航空機は、二度、滑走路での地上の車両との衝突を回避できた。

 「ヤマル」は、こう報告している。「残念ながら現在こうした問題は未解決のままとなっており、ヴヌコヴォ空港でのファルコン-50の事故がこのことを物語っている。仮にロシア連邦の空港における航空機の飛行の地上での保障の問題を当局の担当機関が今後も蔑ろにするならば、乗客や乗員や航空機に新たな深刻な事態がもたらされる可能性を除外できない」

 この分析は、ほどなく何らかの理由で同社の公式サイトから削除されたが、公開の情報ソースには依然として掲載されている。

 「トランスアエロ」社の報道係は、今回の惨事を背景にロシアの空港の安全性をコメントするのは差し控えたいとし、こう述べた。「私たちは、ヴフコヴォでのファルコン-50の事故を背景に各社の活動において発生する非常事態やロシアの空港における安全の問題を協議するのは道徳的に相応しくないと考えます」

 

航空安全基準

 ヴヌコヴォ空港の報道係によれば、今のところ、ファルコン-50の事故の調査が行われており、同空港の従業員は、誰もコメントをしておらず、民間航空輸送の地上の安全が現在どのように確保されているかを語ることができない。

 シェレメチエヴォ空港の報道係も、ヴヌコヴォとシェレメチエヴォにおける地上の安全の確保の違いについて語りたくないとして、コメントを避けた。

 民間航空分野のアナリストでプロジェクト「Avia.Ru Network」の代表であるロマン・グサーロフ氏はこう語る。「ヴヌコヴォ空港でのファルコン-50の事故は、ロシアにおける飛行の安全性が然るべき質を具えていないことの一つの現れにすぎません。問題は、ソ連の基準から国際的な基準への移行に手間取っている民間航空分野における法的基盤が未整備な点にあります」

 同氏によれば、もう一つの問題は、すべての空港に共通する基準に基づいた飛行の安全確保を可能とする国家の単一の飛行安全管理システムがない点にある。

 グサーロフ氏は、民間の飛行場のすぐそばに軍用の飛行場のあることが、航空輸送の安全性に影響を及ぼしているとし、こう語る。

 「ドモジェドヴォ空港の空域は、ラーメンスコエ試験飛行場の空域と近接しており、このため、その上空がひじょうに混み合い、民間航空機の運航が難しくなっています。さらに、モスクワには、民間航空機の飛行が禁止されているゾーンが多く、このことも、空港付近の混雑に拍車をかけています」

 グサーロフ氏は、さらにこう続ける。「一月後にロシアの空港は国際民間航空機関(ICAO)のチェックを受けますが、すべての空港がそれにパスするとは思えません。役人たちは、なんとかチェックをクリアできればよいと考えているだけで、包括的な問題の解決を目指そうとはしていません」

 ダッソー・ファルコン50は、三発エンジンの遠距離ビジネスジェット機で、1976年から2008年にかけてダッソー・アヴィエーション社によって生産された。1994年、この飛行機が蜂起勢力によって撃墜され、乗っていたルワンダとブルンジの大統領が死亡した。ダッソー・ファルコン50は、フランス、イタリア、イラン、モロッコ、ポルトガル、南アフリカ共和国、ヴェネズエラ、ウクライナの空軍にも配備されている。

 トタルのクリストフ・ドマルジュリーCEOは、ロシアのメドベージェフ首相がホスト役を務めた外国投資に関する諮問評議会の年次会合に出席するためモスクワを訪れていた。同氏は、対露制裁の反対者として知られていた。

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