「沈没船では感情をオフにする」

タス通信

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イワン・エピファノフさんは、ロシア非常事態省高危険度救助センター「リーデル」潜水救助部の先任将校。潜水救助活動について、ロシアNOWに語った。

-遊覧船「ブルガリア」号の遭難事故(20117月にボルガ川で沈没し、122人が死亡した大惨事)の際には、遺体の回収作業にあたられたとのことですが、状況はいかがでしたか。

 あれは日曜日、晴れの休日で、事故が起こりそうな感じではなかったので、散歩にでかけようとしていました。信号を受信した1時間後には「リーデル」センターの基地にいました。

 休日であろうとなかろうと1時間以内に反応しますし、当直や予備員になっていれば10分、離れた場所に住んでいる人でも3時間以内に反応します。常にどこにでも行ける準備を整えておかなければなりません。最低限の“文明的条件”もそろっていない、食べ物も水も屋根もない場所で3日間は過ごせるように、すべての物を装備しておくのです。

 あの時は、訓練などではなく、タタールスタン共和国で船が沈没したから、現場に行かなければいけないと言われました。2時間後、我々の乗った飛行機はすでに離陸していました。「ブルガリア」号の沈没現場から船で40分ほどの、クイブィシェフ貯水池の岸辺にキャンプ地を設営しましたが、多くの時間をそこではなく、潜水を行っていた曳船で過ごしました。

 

 8時間の休息時間をもらったこともありましたが、キャンプ地までの往復時間などで、あまり寝ることはできませんでした。水が体力を奪うことは知られていますが、川で15分泳いだだけでも、強い眠気が襲ってきます。水中で2時間作業をした後、浮上してボンベを交換し、また潜ったこともありました。浮上した時はクタクタになっています。まぶたがくっつきそうになって、何もする気が起きず、ただただ寝たいと願うのです。

 

-潜水隊員は水中に最大何時間いることができるのですか。

 6時間ほどですが、状況によって変わってきます。まずは作業の難しさ、次に作業場所の深さ、その次に作業条件です。作業水域に流れがあるのか、ないのか。

 

-そのような作業で、どのぐらいの重さの物を装備しているのですか。

 約40~50キログラムです。時に85~90キログラムに達します。船体の切断作業が必要だったら、このような重い物を装備しなければならなかったでしょう。装備よりも、船内の複雑な構造の中をかきわける方がずっと大変でした。構造はするどい刃物のようでしたから、警戒が必要でした。

 

-どのぐらいの深さまで潜ったのですか。

 最大で15メートルでした。

 

-この事故で最初に潜水した時の印象はどうでしたか。

 ゾッとしました。ただ実際には、作業中に印象などはありません。潜ったら、どこから入るか、どこを通れるか、どんな展開になるか、どんな危険性があるか考え始めます。もう少しお話すると、遺体を回収している最中は、自分をロボット化しました。感情的な部分をほぼ完全に捨てたのです。やらなければいけない作業というのがあって、自分がやらなければ、他にできる人はいないわけですから。

2011年7月10日に遊覧船「ブルガリア」号(定員140人)が、タタルスタン共和国のボルガ川で(首都カザンの南方80キロ地点)で沈没した。=ロシア通信

-エピファノフさんは何人分の遺体を回収したのですか。

 グループで動きますから、個人的に何人という計算はありません。うちのグループには潜水隊員が6人いて、順番に作業していました。3人が潜水し、3人が上で待機し、その後交替するなど。うちのグループが引き上げた遺体は30人分ほどです。上で待機している人は、あと何人引き上げなければいけないのかを計算するのです。船内に誰も残っていないことを確認するために、内部を細かく調査することが我々の課題でした。書類や乗船券の販売数に含まれていない、船長に頼んで乗船した人などが「ブルガリア」号にいるのではないかと想定したので、数えてこれで終わりというのはありませんでした。最後の船室、最後の角部まで、徹底的に調べました。

 

-どのあたりから作業を進めたのですか。

 「ブルガリア」号の時には、同時に約20人の潜水隊員が作業していました。船体の長さで担当場所を割り、それぞれに持ち場が与えられました。下甲板の船室に接近する可能性を探ることが最初の課題で、その後もっとも難しい第三甲板を担当しました。第三甲板に行くには、ガラクタだらけの船内を通り抜ける必要があったのですが、この時、自分に結びつけたロープと、空気が送られるホースもひっぱらなければなりませんでした。あと児童用遊戯室探しも担当したのですが、なかなか見つけることができず、我々の支隊がなんとか発見しました。私と潜水部のエヴゲニー・コチン副部長は、遺体の感じで児童の部屋だと理解しました。障害物を一つ動かしたら、積み木やボールがたくさん浮遊し始めました。

 

-そこに子どもの遺体がたくさんあったのですか。

 はい。最初に子どもの遺体を見つけた時は、つらかったです。訓練されていない人間はあまり知らない方がいいのですが、お話すると、とっても小さな男の子の遺体で、小さな靴をはいていて、人形のようでした。実際に我々は人形だと思ったのですが、手を伸ばして、その手に触れた時に柔らかかったので、遺体だとわかったのです。自分に近づけてよく見て、3歳ぐらいだと判断しました。つらい瞬間です。ですがこの時は課題の一つとして、感情にスイッチは入りませんでした。見つけられて良かったんだと、引き上げなければと。モスクワに帰った後で、自分が何を見たのか理解し始めました。7人の子どもの遺体を見つけたのですが、7人の子どもの命が失われたなんて、何と大人数なのでしょう。

 

-遺族とは話をしましたか。

 はい。ボンベを充填するために、または夜睡眠をとるためにキャンプ地に戻ると、岸辺には親族が立っていました。親族はずっとそこで待ち、助かった人がいるのではないかと期待していました。「もしかしたら生きてるかもしれないので、早く見つけてください」と言われたりしました。我々も最後まで生存者がいることを信じていました。

 このような事故でも生存者がいることはあります。1年ほど前にアメリカで漁船が沈没した時、事故から60時間経過してようやく最初の潜水隊員が沈没船に到達したのですが、そのさらに10時間後に、潜水鐘のような船体の下の空気層で、生存者を1人発見しています。我々は作業2日目に、生存者がいるかもしれないと信じていましたが、船室を開けるたびにここにはいない、ここにもいないと思っていました。それでも親族に生存者はいないと言うことなんて、誰も考えもしませんでした。皆が最後まで希望を捨てなかったのです。

 

-他に困難だった任務にはどのようなものがありますか。

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潜水艦での生活

 最近の事故はほぼすべて困難でした。例えばサヤノシュシェンスカヤ水力発電所の事故です。潤滑油が流出していたことで、作業が困難になりました。ゴム製やネオプレン製の潜水装備は、このような厳しい環境を想定したものではなく、接触によって使えなくなってしまうのです。ですが1日目には水中に潜り、人を見つけ始めました。これ以外に、ハバロフスク地方で水害があった時も、救助にあたりました。また毎年ヴォルゴグラードに行って、第二次世界大戦の水雷探しをしています。弾薬に接するのが、愛する女性に接するときのように、大変な時もありました。弾薬が好き勝手せずに、必要な動きを取ってくれるようお願いするのです。

 スモレンスクから去ろうとした時に、リャザンで弾薬が発見されたという信号を受信し、現場に行って作業を始めたら、145個あったなんてこともありました。

 毎日何か新しいことがあります。作業がない時は、訓練して状態を維持しています。年4回以上潜水集会が行われて、緊急時に常に備えているようにします。そうしないと問題が起こってしまうかもしれません。訓練されていない身体からは、長い時間ガスがでます。ガスは水中でたまってしまうのです。