絵画「放火犯」(1897〜1898年)の複製(ナポレオン占領下のモスクワにおける放火犯たちの銃殺)。画家ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン (1842〜1904年)による。この作品は祖国戦争を描いた連作の一枚。=画像提供:ヴラジーミル・ヴャトキン/ロシア通信
1744年5月末、女帝エリザヴェータ1世は、死刑宣告に関する詳細な書類を送付するよう国の関係機関に指示し、皇帝令なしに実施することを禁じた。これは事実上の死刑制度廃止であった。ロシアではこのようにして、初の死刑廃止が270年前に行われ、その後の復活と廃止を経て、現在の一時停止にいたっている。
世論に従おうとする傾向
ロシアには近年、死刑一時停止措置を解除すべきとの声がある。特に国会議員らは、小児性愛者に対する厳しい罰則の必要性を訴えながら、死刑制度復活を提起している。最近ではロシア捜査委員会のアレクサンドル・バストルィキン委員長が、死刑の「仮定としての適用可能性」について触れた。
ロシアに死刑が必要だと考えている国民も多い。「世論」基金が2年前に行った調査によると、死刑制度復活に賛成と答えたのは全体の62%。死刑対象にすべき犯罪については、72%が未成年者に対する性犯罪、64%が殺人、54%がテロと答えた。また12%が反逆罪と回答している。
専門家は、政府が国民の言うなりになるべきではないと考える。非営利団体「国際受刑者支援慈善基金」のマリヤ・カンナビフ理事は、死刑制度に断固反対している。「死刑で現状改善とはならない。ひとつの残酷さは別の残酷さを生む」
「人権」運動のレフ・ポノマリョフ理事はロシアNOWの取材に対し、国民はかなり前から死刑が必要だと考えているふしがあり、それはロシアだけではないと話す。「罰則を厳格化すれば犯罪が減るという説があるが、このような方法で何かを解決するのは不可能であることが、世界の実績によって示されている。国連が数十ヶ国で調査を行い、その主張が証明された。死刑廃止は人道主義的社会もつくる」
死刑に賛成する人々は、「もし自分の子どもが殺されたら、犯人の死を望まないのか?」と言いながら、個人的な復讐感情に訴える戦略をとっていると、ポノマリョフ理事は指摘する。「国の指導部が考えるべきこととは、犯罪件数の低減、社会の攻撃性の低減、誤認逮捕および無実の死刑囚の可能性だ」
今日、ヨーロッパで死刑制度を適用している国は、ベラルーシだけである。
ロシアにおける死刑の歴史
ロシアは1744年の皇帝令によって、ヨーロッパで初めて罰則システムを人道化したと、「モスコフスキー・コムソモレツ」紙は書いている。皇帝令は正式な死刑廃止命令ではないが、社会では実際に廃止されていた。
ただ死刑がゼロになったというわけではなく、1741年から1825年にかけて、7人が死刑に処されている。そのうちの一人は有名なエメリヤン・プガチョフ(プガチョフの乱の首謀者)である。これが起こった時は、すでにエリザヴェータ1世の時代ではなかった。後の皇帝パーヴェル1世は、自分の代に下した唯一の死刑判決で、こんな風に書いた。「ロシアに死刑制度がなくて良かったし、私が執行命令を出すわけじゃない」
その後死刑制度は復活し、1825年からの80年間で625人に死刑判決が下された。ただし執行されたのは191人。
20世紀初めは厳しい時代だった。ロシア革命期にあたる1905年から1908年までの3年間で、暴動鎮圧の際に約2200人の命が奪われた。他の犯罪に対しては、1918年まで死刑はなかった。
だがその後のソ連政権下では、1947年までに恐ろしい件数の死刑が執行された。その人数は数十万人とされており、歴史学者は60万人以上と考えている。つまりこの時期、毎日1200人に対して死刑が執行されていたという計算である。
1947年5月26日、ヨシフ・スターリン(任期は1922~1952年)は一旦死刑を廃止するが、その後1950年代に入ってすぐに復活させた。
1962年以降のソ連では通貨謀略などの経済犯罪に対しても適用され、1962年から1990年までに2万4000人が銃殺刑に処されている。
ソ連が崩壊し、国が民主主義に転向すると、死刑件数は減少。1991年から1996年までの5年間の執行数は163件だった。最後の死刑執行は1996年9月2日に実施されたもの。同じ年の5月16日、ボリス・エリツィンは、大統領令「ロシアの欧州評議会への加盟にともなう死刑適用の段階的縮小について」を公布していた。1997年4月16日に、死刑一時停止措置が定められた。1999年6月3日、703人に対する銃殺刑が、終身刑に変更された。2009年11月19日、憲法裁判所は、死刑がロシア連邦の国際義務に反することを認めた。
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