戦争の声:時の封鎖をくぐりぬけて

レニングラード解放70周年にちなむキャンペーン「封鎖のパン」で、子供の参加者らが、ターニャ・サヴィチェワの日記の抜粋と写真を持っている。=ウラジーミル・ジェルノフ/ロシア通信撮影

レニングラード解放70周年にちなむキャンペーン「封鎖のパン」で、子供の参加者らが、ターニャ・サヴィチェワの日記の抜粋と写真を持っている。=ウラジーミル・ジェルノフ/ロシア通信撮影

レニングラード封鎖解除70周年にロシアNOWは、封鎖の時代の最も信頼できる史料である、レニングラード市民の日記に目を向けた。ここに取り上げた証言では、第二次世界大戦でもっとも怖ろしい悲劇の一つの史実が、それを体験した人びとによって語られている。語り手が皆、封鎖を生き延びられたわけではない。

194198日。中等学校高学年生エレーナ・ムーヒナ(十七歳)

 今日、初めて「ドイツ機によるレニングラード空襲」が公告された。一編隊の敵機が侵入してきて、最初の空襲で各地に焼夷弾が投下された。住宅や倉庫の火事 が数件発生し、それらはすぐに全滅した。(文字どおりの「すぐに」でなくても、5時間で燃え尽きた。)…… 建物は破壊され、死傷者が出ている。軍事施設は被害を受けなかった。今はまだ朝の9時前。小さな警報が鳴りやんだところ。不思議。もうずっと前に警報が解除されたのに、飛行機の爆音と高射砲の射撃音がはっきりと聞こえた。

 

1941103日。ロシア文学の教員エレーナ・スクリャービナ(三十五歳)

こんな話題も:

消えた名前を探して

 パンの配給は、事務職員と被扶養者が125グラム、労働者が250グラム。私たちの1人分(125グラム)は、オープンサンドに使うくらいの小さなひと切れ。今、パンを家族全員で分け始めた。誰もが自分の思い通りに1人分を決めたがる。たとえば母は、自分のひと切れを3回分に分けようとする。私は1人分全 部を朝一度に、コーヒーと一緒に食べてしまう。少なくとも午前中は、行列に並んだり、交換で物を手に入れたりする力がある。午後はもう力もなくなり、寝ているだけ。

 

19411112日。スクリャービナ

 知り合いの家に寄ったら、新しく考案した料理をご馳走してくれた。それは革ベルトのゼリー。調理法は、豚革のベルトを煮込んでいくと、何かにこごりみたいなものができる。その醜悪さは口では言えないくらい!黄色っぽい色で、ひどい臭い。腹ぺこだったけれど、喉につっかえて、ひと匙も飲み込めなかった。知り合いたちは私が嫌がるのを見て驚いていた。自分たちはいつもこの食事をしているのだ。

 

19411223日。レニングラード軍病院医師クラウジヤ・ナウモブナ

 ひどく衰弱した患者が大勢運び込まれるようになり、対応の仕方を切り替えなければならなかった。どんな怖ろしい光景を見なければならないか、知ってくれたら! これはもう人ではない。干からびた怖ろしい色の皮膚が張りついた骸骨だわ。意識がもうろうとしていて、どこか動きが鈍く、うすのろな感じ。力が全然はいらない。今日、そんな患者を診察した。自分の足で歩いてきたが、2時間後には死んだ。市内でも大勢の人が飢えで死んでいる。今日、私の友人の医師は、同じように衰弱死した父親を葬った。彼女の話だと、墓地や墓地周辺はおそろしい情景で、みんなが死人を、かついだり乗り物に載せて運んでくるという。

 

19411225日。ムーヒナ

ボリス・ロシン/ロシア通信撮影

 何て幸せ、何て幸せなの! 大声で叫びたいくらい。ああ、何て幸せなの! パンの配給量が増えた! しかも沢山。125グラムと200グラムでは大変な違い。事務職員と被扶養者は200グラム、労働者は350グラムになった。これで救われる。この数日、私たちはみんなすっかり衰弱して、足を動かすのがやっとだったもの。でもこれで、ママもアーカも生き延びられる。これが幸せの理由だけど、さらに幸せなことに、これはまだ始まりかけた改善の第一歩だってこと。これからは改善が始まる。

 

194216日。画家、ソ連最初のマリオネット劇場創設者リュボフィ・シャポーリナ

 朝、仕事に出て、足が震えた。病院では仕事がたくさんあった。衰弱した人たちへの皮下注射4人、手術の立ち会い、上へ下へと走り回り、やっとその後、のろのろと帰宅。家に帰って、寝台にごろりと横になる。生きる意欲が失せていく。胸が痛む。生き延びられるかしら?<……>バケツを持った人たちが、水を求めて街をさまよう。水を探しているのだ。薪がない。ほとんどの家では水道管が凍って、水が出ない。幸い、わが家は水が出ることが多く、今は電気も点いてい る。手紙は誰からも来ない。雪が降っている。みんな死んでいき、雪に被われるだろう。

 

水曜日、194217日。スクリャービナ

 1時間ほど前に夫の友人ピョートル・ヤコブレビッチ・イワノフが立ち寄った。あのいつも愉快でエネルギッシュだった青年が、見分けがつかないほど変わってしまった。痩せて、顔色が悪く、どこか変だ。飢えはすべての人を異常な人間に変えてしまうようだ。彼がやってきたのは、私たちのアパートに住んでいる女優 が飼っていた大きな灰色の雄猫がまだいるか確かめるためだった。女優はその雄猫をとても可愛がっていたから、猫はまだ食べられていないのではないかと期待したのだ。私は彼をがっかりさせなければならなかった。何とか足を動かしている人間のほか、このアパートに生き物は何も残っていない。

 

1942116日。スクリャービナ

 外来診療所は、労働者や事務職員でいっぱい。彼らはひどくやつれて、仕事を続けられないが、無断欠勤者に分類されるのを恐れて、医師の診断書――疾病証明 書をもらいに来るのだ。外来診療所に来て、診察を待つ行列の中で、多くの人が死んでいく。この施設の床は、文字どおりの意味で、死者と瀕死者が敷き詰めら れている。外へ連れ出す間もない。

 

1942117日。シャポーリナ

 昨日、夏の庭園のそばを歩いていた。木々は、綿毛のような美しい霜に被われていた。向こうから、40歳位の、ひどく痩せた、知的な風貌の人が歩いてきた。身なりは良く、襟のついた暖かいコートを着ている。鼻は痩せとがり、今、多くの人がそうであるように、鼻の先が紫色に溢血している。目は大きく見開かれて、飛び出るばかり。ようやく足を動かし、握り締めた手を胸に当てて歩き、空ろな震える声で繰り返している。「凍えそうだ、凍えそうだ」

 

1942618日。シャポーリナ:

 今、シメオノフスカヤ通りの古本屋にとても面白い本が何冊も出ている。そこで私は、棺のお金を貯める代わりに、本探しをする。滑稽だ。爆弾がひとつ落ちたら何にも残らない。誰もそのことをまったく考えようともしない。

 

1942715日。クラウジヤ・ヤウモブナ

 私たちは以前と同じように暮らしている。日中は砲撃が多くある…… でも生活は流れていき、冬に比べると、生命が躍動しているとでも言おうか。人びとは清 潔で、服装がよくなった。市電が走り、商店も徐々に開き始めている。香水店は行列。レニングラードに香水が運ばれてきたのだ。もっとも、小さな香水瓶が 120ルーブルするけれど、買う人たちがいるし、私も買ってもらった。私は香水が大好き! 香水をつけると、自分が満ち足りていて、劇場やコンサートやカ フェから帰ってきたところという気になる。

 

194286日。旋盤工ウラジーミル・ボグダーノフ

 何もかも飽き飽きしたが、外は夏だ。冬が来て、何にも変わらなかったら、どうなる? こんな状況で、冬を我慢できるだろうか。他方、疎開に関しては心を決 めている。私と父さんが行くところはないし、持っていく物もない。ぼくらは最後までここに残る。ここに生まれ、20年ずっと住んできたこの街を見棄てるわ けにはいかない。私が愛し、大切に思う街、戦争の日々にこんなに困難で陰気になってしまった街を置き去りにはできない。

 

*記事は、ダニール・グラーニン、アレーシ・アダモービッチの共著『封鎖の書』(1977~1984)(邦訳書名『ドキュメント:封鎖・飢餓・人間 1941→1944年のレニングラード』)を資料として、イリヤ・クローリが準備した。