敵の戦車や装甲列車に体当たりしたソ連の戦車

テック
ボリス・エゴロフ
 敵の重戦車に対する体当たりは、乗員全員の死につながりかねなかった。それでもソ連の戦車兵は第二次世界大戦中何百回もこの無謀な攻撃を行った。

 第二次世界大戦中、戦車がその巨体を使って街のバリケードやレンガの壁を破ったり、敵の車両や大砲をつぶしたり、飛行場の飛行機を破壊したりすることはよくあった。しかし敵の重戦車となれば話は別だ。このような危険極まりない行為に出られたのは最も勇敢で決断力のある戦車兵だけだった。中には装甲列車に体当たりした者さえいた。

戦車を使った最初の体当たり

 戦車を使った体当たりが最初に行われたのはスペイン内戦中のことだ。世界で初めてこれを実行したのはイベリア半島で共和派について戦っていたソビエト軍だった。

 1936年10月29日、ソ連のポーリ・アルマン大尉率いる戦車中隊はマドリードから30キロメートル離れたセセーニャ近郊でイタリア軍の戦車隊と戦っていた。大砲が詰まった指揮官の戦車は、火炎放射豆戦車アンサルドC.V.33に猛追されていた。アルマンの命を救ったのがセミョン・オサッチー中尉の乗ったT-26戦車だった。全速力で敵の側面に衝突し、窪みに転落させた。C.V.33はそこで何度か回転し、最後には爆発した。

ドイツ戦車への体当たり

 第二次世界大戦中の戦車による体当たりは複数の参戦国の軍で記録されているが、その中でもダントツの体当たり実績を残したのが赤軍だ。ソ連の戦車兵は合わせて何百回も体当たりを行った。

 敵の重装甲車両に対する体当たりは、砲弾が尽きたり大砲が壊れたりした絶体絶命の状況で用いる最後の手段と考えられていた。戦時中多くのソ連の戦車兵が、軍学校にいる頃から敵の戦車にどうやって突っ込んで故障させ、自分たちの命を守るかを教わった。

 独ソ戦では、早くも1941年6月22日にはすでに戦車による最初の体当たりが行われていた。ウクライナ西部での戦闘で、パーヴェル・グージ中尉の乗ったKV1重戦車が中型のIII号戦車に体当たりし、キャタピラーを壊して窪みに転落させた。

 同年冬、モスクワ攻防戦でBT-7軽戦車がデニシハ村近郊でドイツ軍の2両のIII号戦車と砲撃戦を行った。1両目は大砲で倒したが、2両目に対しては砲弾が残っていなかった。敵までの距離は200㍍にまで縮まり、操縦手のピョートル・トライニンは体当たりを行うことを決めた。

 「私は体当たりの訓練をした際に教官に教わったことを文字通りすべて思い出した」とこの戦車兵は回想録に綴っている。「教わった通りに行動した。必要なスイッチを入れたり切ったりし、然るべきところに突進した。敵の戦車に前部の縁で突っ込んだ。前部の装甲板が車底部としっかり溶接されている部分だ。正面から鋭角に、正確に駆動輪に衝突した。駆動輪もキャタピラーも砕き、衝突が終わると、エンジンをフル回転させ、セカンドギアで敵の戦車をさらに8~9㍍押しのけた」。

 III号戦車の乗員はハッチから逃げ出そうとしたが、BT-7の指揮官が機銃掃射を浴びせた。突然ドイツ軍の戦車がどこか下へと滑り落ち始め、最後には横倒しになった。トライニンは敵を雪で覆われた川辺の断崖まで押しやったのだった。

 ほとんど無傷のBT-7は森に入ったが、森の外れでもう一両ドイツ軍のIII号戦車を見つけた。乗員はまた同じ手に出ることにした。ドイツ軍の戦車が破壊された仲間の戦車のところまで近付いた時、林から全速力でソ連軍の戦車が飛び出してきた。

 「今度は私は敵の戦車の駆動輪を巧みに破壊し、衝撃も感じないほどだった。だが体当たりの後エンジンが止まり、3度目か4度目でようやく動き出した。動き出して良かった。『脚を失った』ヒトラー軍兵士は、我に返って慌てて砲塔を回した」とトライニンは回想している。ジグザグに走りながら、BT-7は敵の砲撃から逃げ切った

 この敵の戦車に対する二度の体当たりも、ソ連の戦車兵が残した最高の記録ではない。3度ないし4度も体当たりを行った者たちもいた。一方で、多くの兵士にとっては敵の装甲車両に対する一度の体当たりが命取りとなった。

「虎狩り」

 戦車による体当たりの黄金時代となったのが、1943年夏のクルスクの戦いだ。この戦いでは約50回の体当たりが行われた。「あちこちで砲撃戦が体当たり戦に変わり、戦車が密集して装甲板をぶつけ、互いを踏みあっていた」とエヴゲーニー・イワノフスキー将軍は回想している

 30トンのT-34中戦車がドイツの怪物、57トンのVI号戦車「ティーガー」に体当たりを試みたのもまさにこの戦いだった。最初にそれが起こったのは7月12日、プロホロフカ駅付近だった。イワン・グセフ中尉の乗った炎上する戦車が全速力で「ティーガー」に突っ込んだのだ。炎に包まれた敵の戦車は停止したが、ソ連の戦車兵も命を落とした。

 アファナーシー・フョードロフ上級中尉の戦車は運が良かった。7月28日朝、彼らはルィブニツァという居住地にいち早く突入した。機械工兼操縦手のイワン・ドゥプリーは待ち伏せしている「ティーガー」が自分たちの方へ砲塔を向けているのに気付いた。

 「車長、石造りの家の陰に『ティーガー』がいます! 体当たりをしますか?」とドゥプリーは叫んだ。フョードロフ上級中尉は少し考えた後「前進!」と命令した。 

 操縦手はギアを上げ、巧みに動きながら「ティーガー」に近付いた。「ティーガー」はすばしっこいソ連の戦車に照準を合わせることができなかった。T-34はVI号戦車に突撃し、キャタピラーを剥いだ。ドイツ兵は損壊した戦車から逃げようとしたが、すぐに機銃掃射で倒された。フョードロフ上級中尉の戦車は全く無傷で、戦闘能力を完全に保っていた。

装甲列車への体当たり

 多くのソ連の戦車兵が敵の戦車に体当たりをする訓練を受けていたが、装甲列車に体当たりする方法を教えようなどと考える者はいなかった。それにもかかわらず、大戦中に赤軍の戦車が「レール上の要塞」に対して全速力で突っ込んだ事例が何件か記録されている。

 最も有名なのが1944年6月25日にベラルーシ南東部で実行された体当たりだ。第15親衛戦車旅団第2戦車大隊がバブルイスク近郊のチョールヌィエ・ブロドィ駅をめぐって戦っていた。ドイツの装甲戦車はソビエト軍の攻撃を効果的に凌いでいた。

 激戦の最中、大砲が破損して炎に包まれたT-34がドイツの巨人に対して体当たりを決行した。この時までに戦列に残っていたのはドミトリー・コマロフ中尉と操縦手のミハイル・ブフトゥエフのみだった。

 戦車は全速力で、敵の歩兵をなぎ倒しながら、線路の盛土に上がり、ドイツの装甲列車に突っ込んだ。結果、機関銃と大砲を載せた3つの台車が脱線した。敵の動揺を利用して、ソ連軍は駅まで突破した。

 衝突の衝撃でブフトゥエフは即死したが、コマロフは奇跡的に助かった。血まみれになりながらT-34から這い出た彼は、拳銃を撃ちながら近くの森まで逃げ、そこで意識を失った。中尉は幸運にも間もなくソ連の偵察部隊に見つかった。

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