世界を驚かせるはずだったソ連のお蔵入りプロジェクト

テック
エカテリーナ・シネリシチコワ
 これらの野心的な計画が実現していれば、ソ連は多くの分野で文句なしのリーダーになっていただろう。だがそうはならなかった。

ソビエト・インターネット 

 ソビエト版インターネットは計画段階で「全国情報計算処理自動システム」(OGAS)と呼ばれていたが、その発想は掲示板やチャット、ミーム、無料中継からは程遠かった。OGASは陳列された商品の数から作業場の労働者の数まで、全ソ連経済計画を管理するものだった。 

 仕組みはこうだ。相互接続したコンピューターセンターのネットワークが、リアルタイムで全国のデータを集めて分析し、最適な値を出す。全ソ連国民がこのネットワークに接続することになっていた。しかも、紙幣を廃止して全員を電子決済に移行させる計画だった。 

 1970年、国家計画のコンピューターは180のパラメーターを、1985年には30000のパラメーターを計算していた。しかし、先進的なアイデアは実現しなかった。「鉄」と資金が足りなかったのだ。ソ連では常に軍事開発と宇宙開発が最優先事項だった。

 

火星有人探査 

 ソ連にとって月面探査は優先事項ではなく、中継点にすぎなかった。最重要だったのは火星探査で、1960年代にソ連を代表するロケット開発者セルゲイ・コロリョフが本腰を入れてこの課題に取り組み始めた。 

 火星周回軌道に入るための超重量級ロケット、資源の需要・供給の閉じたサイクルを持つ自律的宇宙ステーション、宇宙温室など、すべて周到に計画済みだった。プロジェクトにブレーキをかけたのが「月探査競争」だった。月の分野で米国がソ連の先を越す可能性があると見るや、政権は優先順位を変えてしまったのだ。競争に敗れて火星探査に照準が戻り、5人の宇宙飛行士による有人探査が1985年に計画されたものの、コロリョフが1966年に亡くなったことで火星探査計画は暗礁に乗り上げ、間もなくお蔵入りとなった。

 

巨大ソビエト宮殿

 この政府庁舎の建設は、ソ連史上最大級の規模になるはずだった。頂点にレーニンの100メートルの像が立つソビエト宮殿を建て、新国家の象徴と世界一の高層建築(415メートル!)を作ろうとしたのだ。もし実現していれば、こんな風になっていただろう。

 1931年に爆破解体された救世主ハリストス大聖堂の跡地に建つ予定で、基礎もすでに作られていた。だが第二次世界大戦で計画は頓挫した。戦後、プロジェクトを「蘇生」することはできず、結局基部にソ連最大のプール「モスクワ」が作られた。プールは1990年代に閉鎖され、かつて爆破された大聖堂がそのままの姿で再建された。

 

全地球ミサイルGR-1

 「全地球ミサイル」のコンセプトは米国の同様のプロジェクトに準拠していた。米国ではプロジェクトに展望がないとして早々に打ち切られたが、ソ連は恐ろしい兵器の開発に真剣に取り組み始めた。GR-1の要点はこうだ。核弾頭を積んだミサイルを周回軌道に乗せ、必要に応じて宇宙から目標を直接打撃する。ミサイルの射程や軌道に制限はなく、地球上のどのような目標も攻撃できるはずだった。

 「全地球ミサイルがあれば、早期警戒システムは意味を失う。全地球ミサイルを発見しても、何か策を講じる暇がないからだ」とフルシチョフは言った。1965年に赤の広場に「飛ぶ試作品」(実際には模型)が現れ、西側を震撼させた。だが、ソ連はこれ以上前進できなかった。ミサイルには多くの技術的欠陥があり、プロジェクトは結局ボツとなった。そもそも、宇宙兵器の開発は国連総会で禁止されてしまった。

 

川の流れの変更 

 ソ連は自然を前にしても立ち止まらなかった。この1970年代の途方もないプロジェクトは、160の学術機関と製造機関が携わって20年以上続けられた。伝統的に乾燥しがちな地域を農業天国に変える方法を探していたソビエト政権は、どうやらそれを見つけたらしかった。

 そのためには、何本かのシベリアの川の流れの一部をカザフスタンや中央アジアの乾燥地帯に移す必要があった。例えば、エルティシ川の水はポンプステーションやダム、貯水池を利用して逆方向に流す計画になっていた。 

 もっと「残忍」なプロジェクトもあった。その名も「タイガ」で、250発の原爆を使ってウラルの河川に新たな川床を作るという計画だった。3発の原爆が実際に使われた後、当局は環境と住民への介入による損失が大きすぎることを認めた。河川の流れを変える作業についても同様の結論が出され、良識が勝る結果となった。

 

タトリンの塔 

 第三インターナショナル記念塔、通称「タトリンの塔」は結局建てられなかったが、世界中で構成主義の看板となった。 

 ウラジーミル・タトリンは1917年の革命の象徴として塔を建てることを計画していた。しかも、400メートルの構造物が回転することになっていた。立方体は一年、円錐はひと月、円筒は一日、半球は一時間で回る予定だった。この塔がレニングラード(現サンクトペテルブルク)に現れることはなかった。1920年代末までにソ連指導部はアバンギャルド芸術家に冷淡になり、彼らを象徴的なプロジェクトに参加させなくなった。

 

宇宙からの地球の照明

 もう一つの途轍もない宇宙プロジェクトが生まれたのは1980年代だ。宇宙船のドッキングシステムを開発したソ連の技師ウラジーミル・スィロミャトニコフが、巨大な宇宙の鏡(「太陽の帆」)を使って燃料ではなく太陽エネルギーで宇宙船を飛ばせないかと考えた。ここから別のアイデアも生まれた。この鏡を地球に向ければ、太陽光を反射して安定した日照時間をもたらすことができるのではないか。そうすれば労働生産性を高めることができると考えられていた。

 実際に実験も行われた(ソ連崩壊後ではあったが)。1993年、宇宙船「プログレス」が宇宙ステーション「ミール」のそばに反射板を展開することに成功し、地上に直径8キロメートルの光の斑点を作り出した。斑点は秒速8キロメートルでフランス南部からロシア西部までヨーロッパを横断した。その日の朝は曇っていたが、反射光に気付いた人もいた。

 その後再度行われた実験は失敗した。鏡の一部が宇宙ステーション「ミール」のアンテナに引っかかったのだ。結局、あまり展望がないということでプロジェクトは頓挫した。

 

トーションフィールド 

 トーションフィールドとは、あらゆる回転する物体によって生成されるという理論上の物理的な場だ。80年代、ソ連はトーションフィールド理論を真剣に研究し、月面に間もなくソ連の基地ができる可能性と同程度に強く信じていた。科学アカデミー、KGB(国家保安委員会)、国防省が参加する大規模なプログラムが展開し、トーションフィールドの性質が研究された。ソ連の学者、アナトリー・アキモフ曰く、この場は人類に唯一無二の可能性を与えていた。応用方法はトーション・エンジン、トーション・エネルギー源、新たな物理性質を持つ物質、地質学者がレントゲンの如く地面を透視できる装置(有用鉱物の発見が容易になる)などだ。

 ユートピア的な理論は国家の支援を受けたが、結局結果は出ず、「可能性」を支持する研究結果も出なかった。1991年7月、科学技術委員会の会議で研究プログラムは「似非科学」と認定され、終了した。