ソ連が日本にポリオワクチンを提供:アメリカで開発されソ連全国で試験していた

露日コーナー
オレグ・エゴロフ
 ポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)の最も効果的なワクチンは、アメリカの科学者が開発し、米ソ冷戦にもかかわらず、ソ連でテストされた。そして、日本の母親たちが子供たちの感染を恐れて、街頭で抗議行動を行うと、日本政府はソ連に援助を求めた。

 1961年の日本のニュース映画に、予防接種の場所まで続く長蛇の列が映っている。心配そうな顔の女性たちが赤ちゃんを腕に抱き、年かさの子供たちは両親の脇に立っており、医療ポストのスタッフは、ワクチンを受けたすべての人を記録している。注射ではなく、経口摂取だ。つまり、子供たちはスプーンで薬を飲み込む。

 今や彼らは、ポリオに感染することはない。この危険な病気は、脊髄の灰白質に炎症を起こして、手足の麻痺を引き起こし、さらには死に至り得る。

 日本ではポリオワクチンが待望されており、1961年の夏に、1300万回分がソ連から輸入された。 それ以前に、子供たちの運命を恐れ憤慨した母親たちは、何ヶ月も路上で抗議し、厚生省を包囲していた。日本政府は、ソ連からワクチンを購入することに非常に消極的だったからだ。しかし、なぜソ連はポリオとの闘いの最前線にあったのだろうか?

世界の災厄

 ポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)は、長い間人類に発症してきた。古代エジプト人も罹患していたと推測される。1933~1945年のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトが車椅子による生活を余儀なくされたのもポリオのせいだ。彼は成人してから発症したが、これはむしろ例外だ。通常は子供が罹患する。

 「完全な健康状態で生まれた子供が一夜にして身体障害者になってしまう。こんな恐ろしい病気があるだろうか?」。日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」は、1961年6月に、心配する日本人の母親の言葉を伝えている。

 第二次世界大戦後、都市が拡大し、人口密度が増えるにつれて、ポリオ流行は脅威となった。流行の頻度が増し、より多くの人が罹患するようになった。ソ連も例外ではなかった。1950年には2500例の発症だったが、1958年にはもう2万2千例を超えていた。行動に出る必要があった。

2種類のワクチン

 1955年、ソ連にポリオ研究所が設立された。経験豊かな研究者で、ソ連最高のウイルス学者であるミハイル・チュマコフ(1909~1993)が率いていた。彼は若い頃、シベリアの僻村でダニ媒介性脳炎を研究しているときに、たまたま感染し、一生聴力を失い、右手が麻痺したままになったが、仕事を続ける妨げにはならなかった。彼は、ウイルスの研究を続行し、献身的に戦った。

 しかし、ポリオワクチンは、チュマコフではなく、米国の研究者によって開発された。より正確には、2人の米国人科学者(ジョナス・ソークとアルバート・サビン)が、異なる原理で機能する2種類のワクチンをつくった。ソークは、不活性化した(死んだ)ポリオウイルスを使用し、サビンと同僚のヒラリー・コプロウスキーは、弱毒化した(生きた)ウイルスを使った。

 米国政府は、不活化した(死んだ)ソーク・ワクチンを採用した。日本を含め、世界中で最初にテストされ購入されたのはこのワクチンだった。ソ連でもこれを試したが、不満が残った。

 「ソーク・ワクチンは、全国的に実施するには適していないことが明らかになった。それは高価で、少なくとも2回注射する必要があり、効果は100%にはほど遠かった」。ミハイル・チュマコの息子でやはり研究者のピョートルはこう振り返っている。 

「チュマコフ将軍」とウイルス対策キャンディー 

 冷戦と米ソの政治的対立にもかかわらず、両国の科学者は常に協力してきた。ミハイル・チュマコフは米国を訪れ、ジョナス・ソークとアルバート・サビンのいずれとも話した。後者はチュマコフに、「生ワクチン」の生産に必要な菌株を与えた。ピョートル・チュマコフの回想によると、「すべてはざっくばらんで、文字通り『ポケットに入れて』菌株を持ってきてくれた」。

 サビンの技術に基づいて、「生ワクチン」がソ連でつくられ、そのテストも成功した。チュマコフは接種の形態をうまく選び、それも功を奏した。彼はお菓子の形でワクチン接種を行うことに決めたから、子供たちは注射を怖がらなくてもよかったのだ。「実戦の場」でのテストも成功した。1959年、「生ワクチン」のおかげで、バルト三国でのポリオの急激な発生はすぐに止んだ。 

 その後、ソ連は完全に「生ワクチン」に切り替え、ポリオの大規模な発生はソ連国内では後を絶った。サビンは、冗談めかしてチュマコフを「チュマコフ将軍」と呼んだ。ポリオに対する迅速かつ大規模な取り組みの敬意を表してだ。 

その間日本では

 1950年代後半、日本のポリオをめぐる状況は他の多くの国ほどひどくはなく、年間1500~3000の症例が報告されていたにすぎなかった。だから、政府はこの病気の対策にほとんど注意を払っていなかった。米国とカナダから(少量)輸入されたソーク・ワクチンで事足りると考えられていた。

 「政府の無策に加えて、日本では大部分の学者も、小児マヒの問題はあまりとりあげませんでした。私たちが運動を進める際、ずいぶん反対されました」。ポリオ対策キャンペーンの主催者の一人だった久保全雄(くぼ・まさお)は述べている。「たかが1,000人か2,000人じゃないか。そんな問題を騒ぐとは何事だ(と我々は言われた)」。

 両親が相談した医師の多くは、タイムリーにポリオを診断しなかったため、子供たちは死亡したり、身体障害者になったりした。 

抗議の波

 1960年、日本で検出されたポリオの症例数は5600に急増し、その80%は子供だった。ソーク・ワクチンは、大規模な予防接種には不十分な量しかなく、しかもその有効性は疑わしかった。日本での独自開発も成功しなかった。こうして、抗議行動が全国で起きた。その時までに、サビンの「生ワクチン」はソ連以外でもテストされ、人々はその有効性を確信していた。

 発症した子供たちの両親は、「生ワクチン」の輸入を求めたが、日本の当局はその要求の実行を急がなかった。関連省庁はワクチンが日本人に有効かどうか疑っており、日本政府は「赤」に協力することを望まなかった(当時、日本は米国の忠実な同盟国になっていた)。それで、製薬会社は北米企業との契約を取り決めた。 

「最後の一滴」

 にもかかわらず、1961年に強力で全国的な運動が生まれ、両親、多くの医師、政治家が団結した。彼らは皆、ソ連からワクチンを購入し、集団ワクチン接種を行うことを要求した。研究者の西沢いづみがこの運動について論文で述べているように、人々は徐々に「自分の子供のためのワクチン」という考えから「国のすべての子供のためのワクチン」へと移行した。これにより、以前には分散していた活動家が団結し、統一して行動できるようになった。

 「早く生ワクチンを出してください!こんな心配ってあるものですか!子どもは毎日見えないウィルスに追いかけられているんですよ。あなた方に子どもはないんですか!外国ではとっくにすんでいる研究じゃないですか。製薬会社から文句がつくからじゃないでしょうね!」(「アカハタ」1961年6月25日号が伝えた母親たちの言葉〈西沢いづみ「ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義」所収 〉)。  

 抗議行動と並行して、研究が進んでいた。日本医師会の久保全雄は、1960年12月~1961年1月にモスクワを訪れ、ソ連で生産されたサビン・ワクチンの信頼性を確認し、他国に比べて低価格であることも確かめた。日本政府がその輸入を拒否する理由がなくなっていった。

 輸入の障害がまったく消えたのは、1961年6月19日に東京で抗議していた母親たちが厚生省の建物に入ったときだ。警察は女性たちを止めることができず、彼女たちは要求を当局に直接突きつけた。6月22日、同省はついに首を縦に振り、ソ連が日本に1300万回分の「生ワクチン」を供給することが発表された。日本企業「イスクラ産業」の仲介により、迅速な搬送が組織された。

  「年輩の人は、アエロフロート機が羽田空港で何千人もの群衆に出迎えられたことを覚えているだろう」。ジャーナリスト、ミハイル・エフィーモフは書いている。彼は、ソ連のAPN通信の元編集長で、東京支局長を10年以上務めた。

 ワクチン接種はすぐに成果を生んだ。秋までに日本での流行の発生はおさまり、数年後には、全国でのワクチン接種の結果、この疾病は日本国内では事実上根絶された。ワクチンの開発者アルバート・サビンとミハイル・チュマコフの二人のおかげによるところが大きい。彼らの努力がなければ、世界中にこのワクチンが普及することはなかっただろう。そしてもちろん、何千人もの日本人の母親、医師、活動家が、子供の未来のために、政治を度外視せよと政府に要求したおかげだ。

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