ラーダ2101はどのようにしてソ連を代表する車になったのか

テック
ニコライ・シェフチェンコ
 世界中のドライバーの偶像となったラーダ2101。ソ連がこの車を作るのを助けたのはイタリアだった。

 1970年4月19日、ロシアの街トリヤッチの真新しい工場が6台の新車を生産した。この車は後にソ連だけでなく多くの国々で偶像的な地位を得ることになった。最初のモデルは「VAZ 2101」と呼ばれ、「コペイカ」(ルーブルの補助単位)の愛称で広く親しまれた。

 ソ連が国産車の原型に選んだのはイタリアの「フィアット-124」だった。1966年8月、ソ連政府はフィアットと提携合意を結んだ。この合意により、間もなくソ連史上最も有名な車の一つが量産されることになった。 

 だがまずはイタリア製のモデルをロシアの道に合わせなければならなかった。ソ連の大地でフィアット-124を試験した技師らは、同車に根本的な改良が必要であることに気付き、イタリアの自動車製造者らに改良を依頼した。 

 一方、新工場がソ連各地に作られた。ソ連は特にイタリア共産党の指導者パルミーロ・トリアッティに因んで名付けられた街トリヤッチの工場に重点を置き、ここでイタリアの技師らの助けを得て開発された車を製造した。ヴォルガ河畔のこの街は間もなくソ連の自動車製造業の中心地となる。 

 ソ連政府にとって主導者の人選は極めて重要だった。そこでソ連自動車産業省のヴィクトル・ポリャコフ副大臣が新たな自動車生産ラインのトップに任命された。 

 1970年4月19日、最初のラーダ2101が6台生産された。うち2台は黒で、残りの4台はチェリー色だった。動力は1.2リットルの64馬力エンジンだった。1970年8月、工場は初の市場キャンペーンを開始した。 

 最初の車が生産された翌年の1971年7月、工場は計十万台の車を製造した。2年後の1973年には百万台の車を作った。だがそれでも、ソ連の人気モデルに対する需要に応えるには不十分だった。 

 ラーダ2101人気はソ連内だけに留まらなかった。一部は意外な所にも輸出された。1971年には、最初の国外向けラーダがユーゴスラビアに向けて輸出された。3年後、同車は英国市場向けにデザインを大きく変更された。右ハンドルのラーダは今なお稀少品だ。 

 原則として、国外向けラーダは国内市場向けのラーダよりも品質が優れていた。例えば、英国向けラーダは両側にストライプがあり、車体も静電気防止・耐食加工された厚めの金属でできている。トランスミッションも強化されており、スターターやバッテリーも改良されていた。品質の上がったラーダはブルガリアやハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、キューバ、東ドイツに輸出された。 

 多くの人が最初のラーダ「コペイカ」の思い出を今も大切にしている。「私は『コペイカ』を見るといつも胸が熱くなり、懐かしくなる。最初のマイカー、最初の愛車だ」とラーダ2101についての掲示板に元ラーダ・ユーザーが書き込んでいる。 

 「そう。私はラーダと週に何度かガレージで愛を分かち合った」と別の人は綴っている。この人はラーダの修理に多くの時間を割いたようだ。ソ連では自分で車を直すのは一般的なことだった。ラーダはメンテナンスし易く、ほとんどのドライバーが自分のガレージで修理する習慣を身に付けていた。 

 最後の「コペイカ」が生産されたのは1982年だった(ただし、やや改良されたモデル(「ラーダ21011」)は同じ工場で1983年まで生産されていた)。トリヤッチの工場は計271万930台のラーダ2101を製造した。 

 ソ連ではラーダ2101の生産が終了したが、この車は市場から次第に消え去っていったわけではなかった。世界中の人々が単純で安く扱い易いこの車に恋をし、多くの人がクラシック・モデルや改良モデルを運転し続けた。 

 例えばキューバでは、現地生産された魅力的な「コペイカ」、「ラーダ2101リムジン」がタクシー用の車両として人気だ。

 今日ロシアの若者の中には、最初のクラシックな「コペイカ」を含め、ラーダをレース用やドリフト用に改造する者も多い。「戦闘クラシック」運動が全世代のクラシック・ラーダ・ファンを結束させている。 

「ロシア・ビヨンド」がLineで登場!是非ご購読ください!