謎に包まれたロシアのオーパーツ

テック
エカテリーナ・シネリシチコワ
 これらがどのように作られたのか世界中の研究者が解き明かそうとしてきたが、今のところ古代のオーパーツは疑問を呼ぶばかりだ。

チャンダルの石板

 1999年に南ウラルの村で見つかった巨大な石板は、ウラル地方を3Dプリントした地図のようだ。空撮をしなければ作れないことが実験で示されている。地図上には天然の水路、ダム、堤防が象られており(実際の地形に合致する)、未知の言語が刻まれている。

 「当初我々は、石板は3000年前のものだろうと考えた。その後推定値は動いたが、地図上の目印として板に埋め込まれている貝殻から年代が比定された」と石板を発見したアレクサンドル・チュヴィロフ教授は話す。貝殻は5000万年前のものだった。

 石板は偶然見つかった。チュヴィロフ教授がウファ市の公文書保管所を調べていると、18世紀の資料の中に石板(当時は200枚あったという)に関する記述を見つけたのだ。石板はチャンダル村の近くで見つかり、奇妙な記号で覆われていた。興味を持った彼は、現地の公文書保管所で調査を続けた。すると石板に関する記述が再び見つかり、6枚の石板が「バシキール共和国自然文化歴史記念物」に登録されていることが分かった。そこでチュヴィロフ教授は探検隊を編成し、ヘリコプターでウラル一帯を捜索した。家の敷居の傍に奇妙な石板があるという現地住民が運良く現れ、そして見つかったのがこの石板だ。大きさは148 cm×106cmだった。

 その後の調査で、石板は主に石英(砂)の混ざっていない純粋なドロマイト鉱石でできていることが分かった。これは自然界に存在するものではない。石板はさらなる調査のためモスクワ大学に送られたが、今のところ新たな情報はない。

バイカルの軟玉の輪

 2017年夏、考古学者らがバイカル湖岸とオリホン島に挟まれた海峡付近で男女の遺骨を発見した。彼らは手をつなぎ、男性の眼窩には白い軟玉の輪があった。さらに3つの輪が胸部から見つかった。膝には用途不明の金属製の道具が入った革の袋が置かれていた。女性の傍には13センチメートルの軟玉のナイフが添えられていた。

 調査の結果、埋葬者らが生きたのは4800~4300年前の青銅器時代だということが分かった。現在まで研究者を悩ませているのは輪の用途だ。同様の輪は中国や日本でも見つかっている(最古のものは8000年前まで遡る)。当初世界の学界では、輪は儀式に使ったのだろうと推測された。そもそも、軟玉こそが人種を隔てる分水嶺だとする仮説も存在するほどで、コーカソイドは金を、モンゴロイドは軟玉をはじめとする貴石を崇拝の象徴に選んだという。シベリアの研究者らは別の仮説を唱えている。軟玉の輪は貨幣で、これを作ることができたのはシベリア東部の一部の職人だけだったという。謎はもう一つ。古代人にどうしてこれほど精密な彫刻ができたのか。どのような技術を使ったのだろうか。

イストラの斧

 2019年にも奇妙な発見があった。モスクワ郊外のイストラ地区を発掘していた考古学者らが4500年前のものと推定されるネクロポリスを発見したのだ。クフ王のピラミッドが建てられた頃だ。墓地に眠っていたのはファチャノヴォ文化の担い手だった。彼らはロシア平原で最初の牧畜・農耕民だった。男性は戦闘用の石斧とともに埋葬する風習があったらしい。研究者らの注意を引いたのは、その異様な姿をした石斧だ。

 墓から出土した他の「原始的」な副葬品(矢じりやナイフ、他の斧など)に比べると、戦闘用の石斧はまるでそれだけが千年ほど後に作られたもののようで、とても手で作られたようには見えない。丁寧に磨かれた斧は現代の金属製の斧のようだ。

リャザンの円盤

 モスクワの歴史博物館には説明文のない展示品がある。リャザン(モスクワの200キロメートル南東)で出土したもので、とりあえず「胸の留め具」と呼ばれている。金属製の円盤の表面に均等に刻まれた同心円の意味は謎だ。分かっているのは、これが4世紀に作られたものだということだけだ。

 この円盤は外見の類似性から20世紀初めにギリシア沿海で見つかった「アンティキティラ島の機械」と比較されることが多い。ちなみに「アンティキティラ島の機械」は天体の位置や日食の予測に使われたらしい。

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