ガラスの溶接法はすでに存在していた。だがロシアで初めて生み出されたのは、金属の溶接法だ。
ワシリー・ペトロフ
共有溶接(複数の金属片を高温で溶かしてつなぎ合わせるプロセス)の発見につながる最初の実験は、19世紀初頭にロシア人技師ワシリー・ペトロフと英国人技師ハンフリー・デービーによって同時に、独立して行われた。両者ともアーク放電を発見したが、デービーのアークが短パルスで温度も低めだったのに対し、ペトロフのアークは比較的長時間持続し、金属を溶かすのに十分な高温を生み出すことができた。
ニコライ・ベナルドス
Getty Images19世紀初めの時点では、ペトロフの実験は純粋科学の域を出なかった。しかし1881年、パーヴェル・ヤブロチコフ(炭素アーク灯の発明者)のもとで働いていたロシア人技師・発明家のニコライ・ベナルドスが、放電アークを利用して金属を溶接できることを発見した。1885年、ベナルドスは特許を取得し、1888年には溶接技術の産業利用が始まった。
スラヴャノフの「コップ」
Perm Local History Museum同時に、もう一人のロシア人技師ニコライ・スラヴャノフがアーク溶接棒に炭素ではなく金属を利用することを提案し、これにより融点の非常に高い金属も溶接できるようになった。サンプルとして、スラヴャノフは有名な「コップ」を作った。これは融点の非常に高い8つの金属を溶接して作られた円筒だ。
粉ミルクは乳幼児食品に必要不可欠な要素で、誰もが赤ん坊の頃に飲んだはずだ。しかし、その起源がシベリアの遠隔地にあるということを知る人はほとんどいないだろう。
1792年、モンゴル出身の通訳イワン・エリッチによって初めて、ダウリア(ザバイカリエ地方)で現地のモンゴル人が冬に乳汁を皿に注いで凍らせ、これを日光で乾燥させて水分を飛ばし、「乳粉」を作っていることが記述されている。
間もなく、この地域で活動していた医師が、この粉ミルク製法を民衆に広く知らしめた。 粉ミルクの開発者オシプ・クリチェフスキーは、ネルチンスク(ザバイカリエ地方、モスクワから5000キロメートル以上東)の銀製錬工場で医師として働いていた。彼は、ヤクート人(その多くが同工場で働いていた)が同じ方法で乳汁を乾燥させていることを指摘した。クリチェフスキーは、粉ミルクが「新鮮で栄養価の高い食料が必要な海上」で役に立つかもしれないと提案した。彼はまた、「欧州人はこのシベリアの製品を未だ知らない」とも記している。
クリチェフスキーはネルチンスクで乳汁を保存するためにこの技術を使った。彼はこの地で生涯を終えた。粉ミルクの生産は1832年にサンクトペテルブルクでも初めて導入された。ところが、1855年に最初にこの技術の特許を取得したのは英国人のT.S.グリムウェードだった。
アレクサンドル・ロラン
共有水での消火は想像以上に効果が薄い。そこでロシア人は、火を泡で制することにした。
フランス系ロシア人の技師アレクサンドル・ロランは、効果的な消火方法を模索していた。火事を何度も見てきたからだ。20世紀初め、サンクトペテルブルグとパリで化学を学んだ技師ロランは、ロシア統治下のアゼルバイジャンで最大の都市だったバクーで教鞭を取っていた。バクーは当時ロシア帝国の石油産業の中心地であり、手に負えない石油火災が大きな問題となっていた。水でも粉末の消火剤でも消し止めることができなかったのだ。
消火製品「エウレカ」のラベル。
mchs.gov.ru伝わるところによれば、ロランは友人とビールを飲んでいる時に「エウレカ!」と叫んだそうだ。ロランはすぐに最初の実験を行い、燃え上がる油だまりに泡立ったビールを注いだ。これが効果覿面!ロランは泡立つ物質を発明し、消火製品を扱う会社を立ち上げて「エウレカ」と名付けた。彼は1906年にロシアで、1907年に米国で特許を取得した。
ウラジーミル・シュホフ
共有19世紀に考案された技術が21世紀になって本格的に実用化され始めたというのは面白いことだ。ロシアの建築家ウラジーミル・シュホフは時代を先駆けた天才だった。
ニジニーノヴゴロドで1896年に行なわれた全露産業芸術博覧会。シューホフがで建てた塔の後には主なパヴィリオンがある。
マクシム・ペトロヴィチ・ドミトリエフ撮影斜め格子構造(ダイアグリッド、グリッドシェル)は、1895年から1899年にシュホフが初めて考案し、特許を取得した。利点は、軽量で弾性があり、重圧に耐えられること、浸水の余地がなく劣化しづらいこと、低コストで寿命が長いことだ。今日ロシアに現存するシュホフの塔やパビリオンは、100年以上を経てなお健在で、メンテナンスもほとんど必要ないか、あるいは全く必要ない。
モスクワ。シューホフのラジオ塔。
アントン・デニソフ撮影/Sputnik彼の発明品は、21世紀の建築に多大な影響を与えた。グリッドシェルは今や、リチャード・バックミンスター・フラーやノーマン・フォスター、ニコラス・グリムショーなど世界的に有名な建築家によって用いられている。
リチャード・バックミンスターがデザインしたグリッドシェルのジオデシック・ドーム。モントリオール・バイオスフィア博物館にて。
Getty Images20世紀にはあまり普及しなかったが、これはこの構造が非常に精度の高い計算を必要とするからだ。こうした計算も、今ではコンピューターで容易に実行できるようになった。シュホフはもちろんコンピューター技術とは無縁だったが、どうにか自力で演算をやってのけた。1896年にニジニーノヴゴロドで開催された全露産業芸術博覧会に合わせ、彼は最初のグリッドシェル塔と産業パビリオンを製作した。
ニコライ・コロトコフと彼が使ったリヴァ=ロッチの血圧計。
共有この一般的な医療技術は、現代医療で用いられている最古の技術の一つで、その精度の高さゆえに今日でも標準的な方法であり続けている。
血圧測定法は、人体に適応できる測定法の中で最も重要なものの一つで、さまざまな病気の診断や体調の判定に役立つ。血圧を測るさい、医師は通常2本の指を用いる。収縮期血圧(一度の心拍で最大の値)と拡張期血圧(2度の心拍の間の最小値)を測るためだ。
昔から多くの血圧測定法が存在したが、いずれも精度が低かった。イタリア人病理学者シピオーネ・リヴァ=ロッチが水銀を使った血圧計につないだ膨張性のカフを腕に巻き付ける方法を考案したことで、精度は格段に向上した。カフは腕に巻きつけてから膨らませ、それから医師が患者の脈に指を当てた。脈動が検知できなければ、カフが血流を完全に堰き止めており、カフの内側の圧力が収縮期血圧に等しいことを意味した。しかし、この方法では拡張期血圧が測定できなかった。
ニコライ・コロトコフはロシア人医師で、初め軍医として働いていたが、後に血管外科医となった。1904年、彼はリヴァ・ロッチのカフを使って患者の血圧を測定した際に偶然聴診器を患者の上腕に当ててしまい、この時後にコロトコフ音と呼ばれることになる拍動音を耳にした。この場合、上腕動脈はカフによって堰き止められた液体入りの管に相当する。カフの圧力が収縮期血圧を上回っていれば、血管音は聞こえない。双方の圧力が等しくなると、血の一部がカフの下を通り抜けることができるようになり、血管音が現れる。この音が消えれば、血が自由に往来できるようになったことを意味する。したがって、血管音がしなくなった瞬間の測定値が拡張期血圧の値ということになる。
コロトコフはこの測定法を1905年の報告書の半ページを使って記述した。1935年、この測定法は世界保健機関によって唯一の公式の非侵襲的血圧測定法と認められ、現在に至るまで標準的な方法であり続けている。
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