Lori/Legion Media撮影
デグチャレフ式短機関銃の後継
PPShはデグチャレフ式短機関銃1934/1940年型(PPD-34/40)の後継。1939~1940年の冬戦争後に、フィンランドの短機関銃スオミからコピーされた装弾数71発のドラム弾倉や、外観などが受け継がれている。PPShには1942年から装弾数35発の軽い扇弾倉が装備されたが、このようなモデルにも独自の欠点があった。重くていつでも快適とは言えないドラム弾倉は、円滑な使用のために個別の機関銃に合わせた寸法調整が必要だったにもかかわらず、広く使われ続けた。
PPShはPPDとは異なり、はるかに単純で安く、フライス加工構成エレメントは型打ちエレメントの代用が可能で、正確な加工を必要としたのは銃身と遊底だけだった(許容誤差も大きかった)。戦時中は生産材料の節約、簡易化された技術、信頼性の維持が重要なポイントだったこともあり、これが戦争用の短機関銃になったのである。PPShの信頼性は特別だった。
PPShの特徴はトゥーラ造兵廠製トカレフの7.62 x 25mm弾。弾丸の速度はこれであがった。PPShの発射速度自体に1分あたり900~1000発の能力があった。
PPShの欠点としてあげられることも多い重量だが、ここでは発射の役に立っていた。連射の際には、軽いドイツのMP-40などに比べてより安定している。これには銃身の反動を抑える砲口制退器・補助装置も役に立っている。
第二次世界大戦最高の武器とは
これらすべてによって弾減りが早くなってしまったが、数百メートルの制圧射撃用としては効果的で、標的200メートルまで自信を持って照準発射可能だった。ちなみにMP-40は100~150メートル以下で効果的だと考えられていた。200~250メートル以上の距離では、高速発射や複数での集中射撃によって、PPShからの弾丸の流れで敵を簡単に”投げ飛ばす”ことができた。この弾減りの早さには装弾数71発の弾倉が必須だった。
この点でPPShは極めて効果的な短機関銃、閉鎖的な場所(塹壕、市街地戦)における短距離の戦いの道具であった。
小銃「モシン・ナガンM1891/30」を主要な武器としていたにもかかわらず、自動銃兵を中心に、市街地の突撃グループが構成されていたことは偶然ではない。
PPShは第二次世界大戦の最高の武器ではない、と考えるのがなぜか一般的だ。専門家らは、より軽くて簡易なアレクセイ・スダエフ短機関銃(PPS)が最高、との意見で一致している。PPSは約50万丁製造された。
だが「良」は「最良」の敵。またPPSが使えるようになったのは1943年にかけてだったし、包囲されたレニングラードで製造されていたため、1944年初めまでは他の前線の部隊にPPSを大量装備するのが困難だった(レニングラード解放までに製造されたのは4万6000丁にすぎなかった)。ソ連軍は開戦初日から大量の機関銃を必要としていた。
このような機関銃となったのがPPSh-41。そのためソ連兵の記念碑には、PPSh-41がふさわしいのだ。
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